明史卷一百八十四 列傳第七十二 傅珪

大慶法王の一件

  • 傅珪は字を邦瑞といい、清苑の人である。成化二十三年(1487年)の進士で、庶吉士に改められ、𢎞治年間に編修を授けられ、まもなく司經局の校書を兼ね、『大明會典』の編纂に加わった。完成すると左中允に遷った。
  • 武宗が立つと、東宮の恩によって左諭德に進み、講官に充てられ、『孝宗實録』を編纂した。当時、詞臣は劉瑾に付かなかったので劉瑾は憎み、『會典』が劉健らの手で完成したときに浪費が多かったとして、編纂に加わった者の官を下げた。傅珪は修撰に降ろされたが、まもなく実録の完成によって左中允に進み、再び遷って翰林學士となり、吏部の左侍郎・右侍郎を歴任した。
  • 正德六年(1511年)、費宏に代わって禮部尚書となった。禮部の事務は他部に比べて簡素であったが、傅珪がたびたび異議を唱えたので、章奏はかえって多くなった。
  • 帝は仏を好み、みずから大慶法王と称した。番僧が田百頃を法王の下院のために求め、中旨が部に下ったが、そこには「大慶法王」が聖旨と並べて記されていた。傅珪は知らぬふりをして執奏し、「大慶法王とは何者か。あえて至尊と並べて書くとは大不敬である」と言った。詔で不問とされ、田の件も結局は取りやめとなった。
  • 傅珪は平生は口下手な人のようであったが、大事に当たっては毅然として主張を守り、人はこれを覆せなかった。ついにこれによって権幸に逆らって去ることになる。
  • 教坊司の臧賢が牙牌を朝士と同じ様式に改めるよう請い、さらに方形の印に鋳直すよう請うたが、傅珪は押し止めて行わせなかった。臧賢は日夜、宦官のあいだで誹謗をあおり、傅珪を追い出そうと期した。
  • 流賊が河南を騒がせ、太監の陸誾が軍を監督しようと図って廷議に下された。誰も先に発言しなかったが、傅珪は声を励まして言った。軍は疲れ民は困り、賊は日ごとに盛んである。功を冒す者が多く、事を誤る者が罰を免れているので、将士の心を失っている。先に遣わした者すら功がないのに、また遣わすのか。今、賊は都のすぐ外を横行し、身近な所で民は騒然として乱を思い、禍は旦夕に宗廟社稷に及ぶ。我らは死んでも責めを償えない。諸公はどうして態度をあいまいにできるのか、と。これによって議は取りやめとなったが、疏が上がると結局は陸誾が遣わされ、中官はみな傅珪を恨んだ。
  • 御史の張羽が雲南の災害を奏したとき、傅珪はこれにちなんで四方の災変が畏るべきことを極言した。正德八年(1513年)五月、四月の災害を重ねて奏し、あわせて言った。『春秋』の二百四十二年間に災変は六十九事である。今、昨秋以来、地震・天鳴・降雹・星隕・龍虎の出現・地裂・山崩は合わせて四十二にのぼり、水旱はこれに含まない。災いがこれほどはなはだしかったことはない、と。そのうえで時弊十事を極言し、言葉は多く権幸を斥けるものであった。権幸はいよいよ深く憎んだ。
  • ちょうど戶部尚書の孫交もまた正道を守って逆らったので、旨を偽って二人を致仕させた。両京の言官が交々上章して留任を請うたが、聴かれなかった。
  • 傅珪が帰って三年、御史の盧雍が、傅珪は在位中に古の大臣の風があり、家に蓄えがなく日々の暮らしに窮しているとして、月々の廩米と年ごとの隷卒を頒って優礼を示すよう乞い、また傅珪は剛直・忠誠であるから起用すべきだと述べた。吏部は盧雍の言のとおりにするよう請うたが、返答がなく、傅珪はちょうどそのとき没した。享年五十七。遺言で恤典を請わぬよう命じたが、巡撫・巡按がこれを申し立て、詔によってその子に中書舍人の蔭が与えられた。嘉靖元年(1522年)、先朝で正道を守った大臣を録して、太子少保を追贈し、文毅と諡された。