明史卷一百八十四 列傳第七十二 張昇

劉吉の弾劾と礼部尚書

  • 張昇は字を啟昭といい、南城の人である。成化五年(1469年)の進士第一(状元)で、修撰を授けられ、諭德を歴任した。𢎞治と改元されて庶子に遷った。
  • 大學士の劉吉が国政を握っていたので、張昇は天変にちなんで疏を上げて言った。陛下の即位のとき、論者はおおむね萬安・劉吉・尹直を挙げて論じた。萬安・尹直は斥けられたが劉吉だけが残った。劉吉は身を屈して阿諛し言官の歓心を買い、夜更けに門を叩いて弾劾を免れることを願い、飛び級の昇進を約束した。これによって諫官は口を閉ざし、奸計は初めて成った。貴戚の萬喜は後宮を頼みに凶暴の炎を燃やしたが、劉吉は姻戚を結び、萬喜が獄に下されてもなお助命に奔走した。父が存命のときは別居して竈を分かち、父が没すると喪に服さず起用され、談笑して客に対し、悲しみの色もなかった。艶麗な妾を多く納れ、ほしいままに淫らな行いをしている、と。あわせて劉吉が賄賂を受け子を放任していることなど十の罪を数え上げた。
  • 劉吉ははなはだ憤り、科道官をそそのかして張昇を誣告・誹謗と弾劾させ、南京工部員外郎に移した。劉吉が罷免されるともとの官に復し、禮部の左侍郎・右侍郎を歴任した。
  • 𢎞治十五年(1502年)、傅瀚に代わって尚書となった。孝宗が崩じたとき、真人の陳應䙉、西番の灌頂大國師である納克卜嘉勒燦らが、祓除と称してその徒を率いて乾清宮に入った。張昇は逮捕・処罰を請い、詔によって真人・國師・高士など三十余人の名号を奪って追放した。
  • 張昇は部にあること五年、災異があるたびに進言し、しばしば論者に攻められもしたが、みずから守るところは謹厳であった。
  • 武宗が遊興にふけって政を怠ると、給事中の胡煜・楊一渶・張禬がいずれもこれを述べ、章は禮部に下された。張昇はそこで上疏し、賢者に親しみ佞人を遠ざけ、天の戒めを謹んで受けるよう請うた。帝は是としたが用いることはできなかった。張昇はそこで続けて疏を上げて辞職を乞うたが、許されなかった。
  • 正德二年(1507年)、秦府の鎮國將軍である誠漖が保安王の襲封を請うたとき、張昇は不可として譲らず、劉瑾に逆らって病と称した。詔によって太子太保を加えられ、伝馬に乗って帰り、月々の米と年ごとの夫役は制のとおりであった。家で没した。