明史卷一百八十三 列傳第七十一 倪岳

倪岳(字は舜咨、?–1501年)は上元の人。南京禮部尚書倪謙の子で、天順八年の進士。学を好み文章に敏く、経世の務めに通じたので、耿裕の下で礼の文と制度はおおむね倪岳の裁断を待った。禮部尚書として國師の召還を諫め、諸王府造営の定式を請い、災異の月次報告を通じて勤学・言路・寛賦・節用を勧めた。のち吏部尚書となって請託を絶ち、銓政は公平と称された。とりわけ河套をめぐる西北の用兵の害を論じた長篇の奏議で知られる。

年表(5件)

出自と礼部尚書

  • 倪岳は字を舜咨といい、上元の人である。父の謙が命を奉じて北岳を祀ったとき、母が緋衣の神が室に入る夢を見て岳を生んだので、これを名とした。謙は南京禮部尚書で終わり、文僖と諡された。
  • 倪岳は天順八年(1464年)の進士で、庶吉士に改められ、編修を授けられた。成化年間に侍讀學士を歴任し、東宮で直講した。成化二十二年(1486年)、禮部右侍郎に抜擢され、なお経筵に出仕した。𢎞治の初めに左侍郎に改められた。
  • 倪岳は学を好み、文章は敏捷で、世を経める務めを広く綜べていた。尚書の耿裕は方正で大体を持したので、礼の文と制度についてはおおむね倪岳を待って決した。
  • 𢎞治六年(1493年)、耿裕が吏部に移ると、倪岳が代わって尚書となった。詔で國師の琳沁札勒を四川から召したとき、倪岳は力を尽くして諫めたが従われず、給事中の夏昂・御史の張禎らが相次いで争って、ついに沙汰やみとなった。
  • 当時、諸王府の造営は規模が壮麗で永樂・宣德の旧制を越えていたので、倪岳は定式を頒布するよう請うた。また、四方から報告される災異について、禮部が年末に一括して奏するのが形式に流れていたので、月ごとに詳しく次第を記し、経史を広く引いて感応の理を説き、帝に学問に勤め、言路を開き、賦役を寛くし、刑罰を慎み、奸貪を退け、忠直を進め、冗員を汰め、齋醮を停め、営造を省き、濫賞を止めるよう勧めた。帝はかなり採納した。
  • 左侍郎の徐瓊は后の家と縁続きで、倪岳に代わろうと謀った。𢎞治九年(1496年)、南京吏部の尚書が欠員となり、廷議は徐瓊を推したが、詔は倪岳に太子太保を加えて赴任させ、徐瓊がはたして代わった。まもなく倪岳は南京兵部に移されて機務に参贊し、帰って屠滽に代わって吏部尚書となった。請託を厳しく絶ち、世評に阿らなかったので、銓政は公平と称された。
  • 倪岳は容貌が偉大で風采が厳しく、大事の裁断に長け、朝廷こぞっての議論も片言で決したので、聞く者は納得して従った。同列の中では最も馬文升を推して譲ったが、事を論ずるにあたって安易に同調したことはなかった。前後に陳請したこと百余事、軍国の弊政をえぐり出して残すところがなく、疏が出ると人々は多く写し伝えた。

西北の用兵を論ずる

  • 西北の用兵の害を論じたものはとりわけ切実であった。その概略は次のようである。
  • 近年、瑪拉噶阿勒楚爾博羅齊伽嘉色凌が大いに辺境の患いとなっている。これは河套の中は水草が豊かで屯牧に適しているため、賊がしばしばその地を占め、衆を率いて侵入するからである。
  • 諸将は怯懦で、おおむね城に籠って守り、敵に遭えばたちまち敗れる。その前鋒を挫く者もなく、その帰路を遮る者もない。敵は進めば大きな利を得、退いても後顧の憂いがない。そのため戦火は収まらず辺患は安まらない。
  • 将に命じて征討させること四年に三度、まったく寸功もない。ある者は高枕して帰り、ある者は悠々と戻り、爵位を手にして朝廷の列に安んじ、絹や金を車に積んで私宅に満たしている。
  • しかも軍がひとたび動けばすぐ勝報を上げ、賜与はみだりに施され、官位は軽々しく授けられる。はなはだしきは無辜の平民を殺して首級と偽り、敵が敗れてもいないのに逃げ去ったと言いつくろう。功賞の及ぶ先は権門の子弟か下男であり、隊伍の兵卒や兵糧を運ぶ民は荒城に骨を委ね、その膏血が野草を肥やす。天は怒り人は怨み、禍は日ごとに深い。小事ではない。
  • 京營はもともと冗員で怯懦と言われ、京師に留め鎮めても根本を固めるに足りないほどなのに、軽々しく出撃させ、天威をみだりに用い、陣に臨めばすぐ逃げる。かえって辺軍の功を損ない、敵に侮られている。
  • しかも延綏は辺境であるが京師から遠く、宣府・大同もまた辺境であるが京師に近い。かの地には門前の喩えがあるのに、こちらには階前を守る厳しさがない。それでよいのか。
  • 先ごろ兵部が、宣府から五千、大同から一万の兵を出し、力を合わせて延綏を救うと建議した。だが両地の距離が遠く往復が間に合わないこと、人心が移動に苦しみ馬力が疾駆に疲れることを考えていない。声東撃西は賊寇の奸計であり、虚を衝き亢を批つのは兵家の長策である。精鋭を西に尽くして老弱を北に残し、万一北に警報があっても西を離れられなければ、首尾が破られ遠近ともに座して困窮する。得策といえようか。
  • 延綏に士馬が集まれば兵糧は莫大となり、山西・河南の民に糧秣輸送の役を負わせている。千里を徒歩し、夫が運べば妻が供し、父が挽けば子が担い、道路には愁いと怨みが満ち、村里は空になる。運よく着いても秣一束が百銭、米一斗は値が倍する。運悪く賊に遭えば身も果てる。ほかに何を言おうか。
  • 輸送が足りなければ輕齎(現銀での代納)があり、輕齎が足りなければさらに予徴がある。水旱は先に知れず、豊凶は予測できない。徴収をどうして前もってできようか。
  • また民に秣を納めさせて官を補わせているが、権貴に媚び私に親故を助ける者は、空手形を出して倉庫には一升一合も入らないことがある。粟を納めて塩を給する制度でも、豪族が請託して虚名を占め、それを売るので商人の費用は数倍になる。官爵は日ごとに軽くなり、鹽法は日ごとに阻まれ、辺境の備蓄は依然として満たされない。
  • さらに朝廷は国庫を出して辺境に給すること年に銀数十万、山西・河南が輕齎を辺境に輸するのも年に数十万を下らない。銀が日ごとに積もって多くなれば銀はいよいよ賤しくなり、粟が日ごとに散じて少なくなれば粟はいよいよ貴くなる。それを知らぬ者は、兵を養う中に猿を飼う小細工を持ち込み、茶や塩や銀や布をもって糧価に充てると称しながら、実は軍需を横領している。朝廷には無駄に禄を食む憂いがあり、軍士には腹を満たす楽しみがない。
  • 兵馬が通れば例として接待が要る。平時なら一人につき日に米一斗、馬一頭につき日に秣一束であるが、一日のうちに一、二の堡や三、四の城を経ることもある。どうしてすべて給せようか。しかも管理する者は巧みに掠め取る策を弄し、通過した先には残らず支出が計上される。上を欺き私を行うことでこれ以上のものはない。
  • 敵を防ぐ策を尋ねてみれば、議論は紛々としている。受降城の旧険を復し東勝の旧城を守れば、声援が通じ掎角の勢で制しやすいという説がある。しかし黄河の北に城を復そうとすれば塞外に兵を屯させねばならず、孤立した遠征軍を出して荒漠の地を渡り、輜重に足を取られ兵糧の輸送も難しい。敵は前で掠め後ろから襲うかもしれず、日を重ねて長引けば軍糧が尽き、進んでも城を得ず退いても帰れない。ひとたび敗れれば声威は大いに損なわれる。
  • また、十万の兵を統べて半月分の糧を携え、武威を奮って巣窟を掃討し河套を空にせよという説もある。事としては悪くない。しかし帝王の兵は万全をもって勝ち、孫子・呉子の法は逸をもって労を待つ。今、勇を鼓して前進し、遠くまで捜索して危険を冒し、万一の僥倖を当てにしようとしている。糧を担いで遠く従えば重くて役に立たず、兵だけを提げて深入りすれば孤立して救援できない。しかもその地方は千里にわたって城郭の住まいも蓄積の守りもない。敵が往来し移動すれば、わが方は駆け回って疲れ、内情は見透かされ勢いは屈して敵に苦しめられる。座して勝つ機を失い、必ず覆没の轍を踏む。
  • 最も策のないのは、延綏を棄てて守らず、兵民の肩を休ませようという説である。一民・一尺の土も祖宗から受けたもので、ゆるがせにできないことを知らないのだ。かつて東勝を失ったために今日の害が延綏に集まり、關陝が動揺している。今、延綏を棄てれば、後日の害は關陝に集まり京師が動揺する。賊は近づくほど禍は大きくなる。
  • そのうえで、将の権を重くすること、城堡を増やすこと、斥候を広げること、民壮を募ること、客兵を減らすこと、賞罰を明らかにすること、間諜を厳しくすること、屯田を充実させること、辺境への漕運を復すことなど数事を陳べた。当時、兵部は用兵を主張していたので、すべては用いられなかった。
  • 𢎞治十四年(1501年)十月に没した。享年五十八。少保を贈られ、文毅と諡された。明代において父子ともに翰林の官に就き、ともに「文」の字を含む諡を受けたのは、倪岳から始まる。