出自と正徳年間
- 劉忠は字を司直といい、陳留の人。成化十四年(1478年)の進士で、庶吉士に改まり、編修に任じられた。
- 𢎞治四年(1491年)、『憲宗実録』が成って侍講に遷り、経筵に直し、まもなく東宮の講読を兼ねた。さらに九年で侍読学士に進んだ。
- 武宗が即位すると、宮僚であったことから学士に抜擢されて翰林院を掌り、なお経筵に直した。
- 正徳二年(1507年)、劉瑾が用事して日々帝を遊戯に導き、祖宗の旧章を乱したので、劉忠は上言して逸遊を戒め正学を崇めるべき数事を陳べた。そののち進講に際して楊廷和とともに経義に託して帝の欠失を規諫し、近幸を指弾することとりわけ切実であった。帝は劉瑾に「経筵は書を講ずるだけのものだ。浮ついた言葉は何のためか」と言った。
- 劉瑾はもとより二人を憎んでいたので、吏部尚書の許進をそれとなく促して南京へ出させた。南京の諸部には右侍郎が一人あるだけであったが、許進はとくに請うて劉忠を礼部左侍郎とした。命が下ると外の議論が沸き立ち、許進はこれを憂えて、わずか二か月で劉忠を本部尚書に抜擢した。その冬、そのまま吏部に改めた。
- 当時、留都のある御史はもとより驕横で、ある郎中は張綵の寵愛する者であったが、任期が満ちるといずれも下考を付けた。吏胥が偽名で籍を寄せる弊を憎み、諸曹を督して千人を調べ汰めた。京官の大計では黜けた者が以前より多く、さらに疏して、時を定めず糾弾して勧懲を示し、六年ごとの考課を待たぬよう請い、詔で許された。
- 劉忠は南京にあって正直で風采があった。しかし当時、劉瑾がまさに厳苛をもって士大夫を辱めていたところへ、劉忠が縄墨を執って下に臨み、糾弾が厳しすぎたので、当時の議論は劉忠が劉瑾の意に迎合したとして、かなり怨みを寄せた。
- 正徳五年(1510年)二月、吏部尚書兼翰林学士に改まり、専ら制詔を掌った。二度疏して退休を乞うたが返答はなかった。
- 劉瑾が誅されると、本官のまま文淵閣大学士を兼ねて入閣し機務に参預した。わずか数日で寧夏平定の功により少傅兼太子太傅を加えられた。先例では閣臣の加官が急に三孤に至ることはなかった。劉忠は功もないのに急に得たので自ら安んじられず、章を連ねて固辞したが許されなかった。
- 劉瑾は誅されたものの、張永・魏彬の輩が政をほしいままにし、大臣は競って交わりを結んだが、劉忠だけは顧みなかった。張永がかつて廖鵬を遣って劉忠に謁させたとき、劉忠は僕隷のように扱い、さらにその贈り物を退けた。これにより張永の輩と反りが合わなくなった。
- 前後に退休を乞う疏を七、八度上げたが、いずれも慰留された。
- 翌年、会試を主管するよう命じられ、終わったばかりのところで、帝が試録の文義に誤りが多いとして李東陽を召して示した。劉忠は中官に足をすくわれたと知り、墓参を乞い、詔により伝馬で還った。家に着いてから重ねて章を上げて致仕を乞い、許されて、月々の廩と年ごとの隷を終身与えられた。
- 世宗が即位するとたびたび薦められたが起たず、行人を遣って見舞われた。劉忠は奏して謝し、あわせて献言するところがあった。帝はその忠愛を褒めた。
- 嘉靖二年(1523年)に卒した。年七十二。太保を贈られ、文肅と諡された。
史論
- 賛にいう。徐溥は寛厚をもって著れ、邱濬は博綜をもって聞こえた。その事を指して言を陳べ、懇々として盛時に憂え明を危ぶむ計を述べたのを見れば、勤勉であったと言える。
- 劉健と謝遷は正色して道を直くし、身を顧みずに尽くした。閹豎が政を乱すと義を秉って固く諍い、志は遂げられなかったが、剛厳の節は終始変わらなかった。明代の賢い宰輔は、三楊のほかに、前には彭時・商輅、後には劉健・謝遷と称される。道をもって君に事えた者に近いのではあるまいか。
- 李東陽は身を屈めて留まったことで謗りを受けたが、善類はこれによって支えられ、全うされたところは少なくない。大臣は国と休戚を同じくするもので、去ることを高しとし遠く逃れることを潔しとするわけにはいかない。ただその志がどうであったかを見るべきである。
- 王鏊と劉忠は正を持して阿らず、身を全うして早く退いた。これはまことに去就の節を明らかにしたのである。どうして身を屈め俯仰して迎合などできようか。