明史卷一百八十一 列傳第六十九 李東陽

李東陽(字は賓之、?–?)は茶陵の人で、戍籍によって京師に住んだ。四歳で大字を書いて景帝に召され、十八歳で進士となった神童である。孝宗朝に内閣へ入り、劉健・謝遷とともに輔政して顧命を受けた。武宗の代に劉瑾が権を握ると、劉健・謝遷が去った後も独り閣に留まり、身を屈めて劉瑾の乱政を繕い、崔璿・劉大夏・楊一清ら多くの善類を救った。そのため気節の士からは非難されたが、文章では楊士奇と並ぶ搢紳の領袖とされた。

年表(9件)

出自と孝宗朝の輔政

  • 李東陽は字を賓之といい、茶陵の人。戍籍によって京師に住んだ。
  • 四歳で径尺の大字を書けた。景帝が召して試み、大いに喜んで膝に抱き上げ、果物と鈔を賜った。後に二度召されて『尚書』の大義を講じて旨に適い、京の学に入るよう命じられた。
  • 天順八年(1464年)、十八歳で進士となり、庶吉士に選ばれ、編修に任じられた。累進して侍講学士に遷り、東宮の講官を充めた。
  • 𢎞治四年(1491年)、『憲宗実録』が成り、左庶子兼侍講学士から太常少卿に進んで兼官は元のままとされた。
  • 𢎞治五年(1492年)、旱災によって言が求められると、李東陽は『孟子』七篇の大義を抜き出し、時政の得失を添えて数千言を重ねて上げた。帝は善しと称した。
  • 閣臣の徐溥らが、詔敕が多いので先朝の王直の故事に倣って専任の官を置くよう請うたので、李東陽を礼部右侍郎兼侍読学士に抜擢し、内閣に入って専ら誥敕を掌らせた。
  • 𢎞治八年(1495年)、本官のまま文淵閣に直して機務に参預した。謝遷と同じ日の登用である。久しくして太子少保・礼部尚書兼文淵閣大学士に進んだ。

闕里からの帰途の上疏

  • 𢎞治十七年(1504年)、闕里の廟が再建されて成り、命を奉じて祭りに赴き、還って上疏した。
  • 臣は使いを奉じて急ぎ行き、たまたま大旱に遭った。天津への一路、夏の麦はすでに枯れ、秋の禾はまだ蒔かれていない。舟を曳く者に完全な衣なく、鋤を担う者に菜色がある。盗賊は横行し、青州はとりわけ甚だしい。南から来た人の話では、江南・浙東は流亡が道に満ち、戸口は減り、軍伍は空しく、庫には十日の蓄えもなく、官には数年分の俸給が欠けているという。東南は財賦の出るところなのに、一年の飢饉ですでにここに至った。北の地はもともと貧しく蓄えがない。今秋また凶作となれば、どうして堪えられよう。事変の生ずることは測り知れない。
  • 臣がその地を通らなければ、久しく官署にあって日々章疏を処理していても詳しくは分からなかった。まして陛下は九重の上に高く居られるのである。
  • 臣が道すがら訊ねたところ、みな言う。無駄飯を食う者が多すぎ、国用に定めがなく、差役は頻繁で、賦課は重複している。京城では土木がしきりに興り、役に供する軍士は財力を使い果たし、班操のたびに死んでも赴くまいとする。勢家や巨族は田が郡県に連なるのに、なお自ら乞うてやまない。親王が藩に赴けば供給は二、三十万に及ぶ。遊手の徒は皇親の従僕を名乗り、関津や都会でしきりに市肆を張って商税を網羅する。国家は北に都を建てて東南に仰いでいるのに、商賈が驚いて散るのは決して些細なことではない、と。
  • さらに織造の内官が群小を放って乱暴に振る舞い、閘河の官吏は驚き走らぬ者なく、行商や貧民は至る所で騒然としている。これは臣が目撃したことである。
  • そもそも閭閻の実情は郡県が知り得ず、郡県の実情は廟堂が知り得ず、廟堂の実情は九重もまた知り得ない。容隠に始まり蒙蔽に至る。容隠の端は甚だ小さいが、蒙蔽の禍は甚だ深い。
  • 臣は山東にあって、陛下が災異のたびに現れることから群臣に憚りなく言を尽くすよう敕されたと伏し聞いた。しかし詔旨が頻りに降り章疏が出尽くしても、事が内廷や貴戚に関われば動もすれば掣肘され、年を重ね時を経てすべて阻まれ廃される。今日言われたことも、まことに空文となるのではないかと恐れる。どうかこれまでの内外の条奏を取り上げ、詳しく採択して断じて必ず行われたい、と。
  • 帝は感嘆してすべて担当官に付した。
  • このころ帝はたびたび閣臣を召して政事を面議し、李東陽は首輔の劉健らとともに心を尽くして献納し、時政の欠失には必ず言を尽くし極諫した。李東陽は古文に巧みで、閣中の疏の草案は多くこれに委ねられ、疏が出れば天下が伝誦した。
  • 翌年、劉健・謝遷とともに顧命を受けた。

劉瑾の下での忍従

  • 武宗が立つと、たびたび少傅兼太子太傅を加えられた。劉瑾が司礼に入ると、李東陽は劉健・謝遷とともにその日に辞職を申し出た。中旨で劉健と謝遷は去り、李東陽だけが留められたので、これを恥じて再び疏して懇請したが許されなかった。
  • はじめ劉健と謝遷は劉瑾誅殺の議を持して言葉が甚だ厳しく、李東陽だけがやや穏やかであったので、独り留められたのである。
  • 劉健と謝遷が発つ間際、李東陽が餞して涙を落とすと、劉健は正色して「なぜ泣くのか。あの日に力争していれば、我らと共に去っていたであろうに」と言った。李東陽は黙っていた。
  • 劉瑾は志を得ると搢紳を挫くことに努め、焦芳が入閣してその暴虐を助けたので、老臣や忠直の士はほとんど放逐され尽くした。李東陽は悶々として志を得ず、身を屈めて禍を避けたが、焦芳はその位が自分の上にあることを嫉んで、日夜、劉瑾のもとで陥れようとした。
  • これより先、李東陽は命を奉じて『通鑑纂要』を編んでいたが、成った後、劉瑾は人に筆画の小さな瑕を摘ませ、謄録官数人の名を除いて、それによって李東陽に及ぼそうとした。李東陽は大いに困り、焦芳と張綵に頼んで取りなしてもらい、ようやく収まった。
  • 劉瑾の凶暴は日々甚だしく、そしり侮らぬところがなかったが、李東陽にだけは表向き礼敬した。およそ劉瑾が行った乱政について、李東陽はその間を繕い、救ったところも多かった。
  • 尚寶卿の崔璿、副使の姚祥、郎中の張瑋が制に違えて肩輿に乗り、従者がみだりに駅馬を求めたこと、給事中の安奎、御史の張彧が辺の兵糧を調べて劉瑾の意に背いたことで、みな重い枷を掛けられて死にかけたが、李東陽が力めて救い、崔璿らは戍りに謫され、安奎・張彧は釈されて民とされた。
  • 正徳三年(1508年)六月壬辰、朝が退いてから御道に匿名の書が遺され、劉瑾の罪を数え立てていた。詔により百官はすべて奉天門外に跪き、ほどなく庶僚三百余人が捕えられて詔獄に下された。翌日、李東陽らが力めて救い、劉瑾もその同類の仕業だと調べがついたので、衆は宥された。
  • 数日後、李東陽は疏して寛恤の数事を言い、章は担当官に下された。まもなく戸部が覆奏して「糧草の欠損には専管の役所がある。巡撫官は大綱を総領するのだから軽減すべきである」と言った。劉瑾は大いに怒り、旨を偽って数百言で詰責したので、中外は驚き嘆いた。
  • 劉瑾は盗賊が日々増えるのを憂え、その家族および隣里、さらには隠匿した者まで戍らせようとした。ある者が「盗七十人を捕えた」と申し出て、担当官が新例で処理しようとしたとき、李東陽は「そうすれば百年前の案までも追及できることになる」と言い、そこで取りやめとなった。
  • 劉健・謝遷・劉大夏・楊一清および平江伯の陳熊の輩が危うく禍に遭うところを、みな李東陽によって解かれた。その密かに事を動かし黙って奪い返して善類を保全したことで、天下は陰にその庇護を受けたが、気節の士の多くはこれを非とした。侍郎の羅玘は上書して早く退くよう勧め、門生の籍から削ることまで請うた。李東陽は書を得てうなだれ、長嘆するばかりであった。
  • 焦芳が宦官と一体となり、王鏊は正を持しても劉瑾に抗しきれなかったので、李東陽は楊廷和を引いて共に事に当たり、ようやくこれを頼みとして自ら強めた。まもなく王鏊が辞職し、その代わりの劉宇・曹元はみな劉瑾の一党で、李東陽の勢いはいよいよ孤立した。
  • 李東陽は以前すでに少師兼太子太師を加えられていたが、その後、劉瑾が焦芳に官を加えようとしたとき、詔により李東陽は正一品の禄を食むこととなった。
  • 正徳四年(1509年)五月、『孝宗実録』が成り、編纂の諸臣は順に昇進すべきところ、担当官が『会典』の先例を援いたが、詔により「劉健らが以前『会典』を纂修したとき糜費が多かった」として、みな昇進した職を奪われ、李東陽も俸を降された。数日居って、実録の功で復された。
  • 正徳五年(1510年)春、久旱により刑を恤む詔が下ったので、李東陽らは詔書に及ばぬ数条を上げ、帝はすべて従ったが、法司は劉瑾を畏れて死を減じたのはわずか二人であった。
  • その秋、劉瑾が誅されると、李東陽は上疏して自らを列した。臣は禁近に員を備え、劉瑾の職掌と関わりがあった。およそ旨を調え敕を撰するにあたって、あるいは再三差し戻され、あるいは勝手に改竄され、あるいは私室に持ち帰って他人に代筆させ、あるいは謄黄を渡して草稿を落とすよう強いられた。真偽が入り混じって区別のしようがなかった。臣は委曲に持ちこたえていくらかでも救おうとしたが、因循して隠忍したことで損なったところも多い。道理として黜罷されるべきである、と。帝は慰留した。
  • 寘鐇の乱が平定され、恩を加えて左柱国に進み、子一人に尚寶司丞を廕せられたが、御史の張芹に弾劾された。帝は怒って張芹の俸を奪い、李東陽もまた退休を乞い廕を辞したが許されなかった。
  • 当時、焦芳と曹元はすでに罷められ、劉忠と梁儲が入って政事は一新したが、張永・魏彬・馬永成・谷大用らはなお用事し、帝の遊び戯れは元のままであった。皇子がまだ生まれぬのに外に泊まることが多く、また豹房の大工事や禁中の寺観建立が議された。李東陽らはこれを憂え、前後して章を上げて切諫したが、返答はなかった。
  • 正徳七年(1512年)、李東陽らは、京師および山西・陝西・雲南・福建で相次いで地震があったのに、帝が講筵を行わず視朝を久しく怠り、宗社の祭享に親臨せず、禁門の出入りに節度なく、谷大用がなお西厰を開いていることについて、たびたび上疏して極諫したが、帝はついに聴かなかった。
  • 九年の任期が満ちて大学士の俸を兼支し、河南の賊が平らいで子に世襲の錦衣千戸を廕せられたが、再び疏して力辞し、六品の文官の廕に改められた。
  • その冬、帝が宣府の軍三千を京の衛に調え、京軍を交代で辺に戍らせようとしたので、李東陽らは力めて不可を主張し、大臣・台諫もみな同じことを言った。中官がひっきりなしに敕の起草を求め、帝は乾清宮の門に坐って促したが、李東陽らはついに詔を奉じなかった。翌日、結局は内降が出て実行された。江彬らはこうして辺兵を率いて豹房に入ることになった。
  • 李東陽は老齢と病により退休を乞い、前後に数度章を上げ、このときはじめて許され、敕を賜り廩・隷を給されること先例どおりとされた。さらに四年で卒した。年七十。太師を贈られ、文正と諡された。
  • 李東陽は父の李淳に仕えて孝行があった。はじめ翰林に官していたころ、常に酒を飲んで夜が更けると、父は寝ずに寒さを忍んで帰りを待った。これ以来、終身、外で夜の酒を飲まなかった。
  • 文を作れば典雅で流麗、朝廷の大きな著作は多くその手から出た。篆・隷の書に巧みで、碑板や篇翰は四方に流布した。
  • 後進を奨励して育て、才能ある者を推挙したので、その門から出た学士・大夫はみな輝かしい成果を挙げた。明が興って以来、宰臣で文章によって搢紳の領袖となった者は楊士奇と李東陽だけである。
  • 朝に立つこと五十年、清節を変えなかった。政を退いて家に居ると、詩文や書篆を請う者が敷居を埋めるほどで、かなりそれで日々の暮らしを賄った。ある日、夫人が紙墨を進めたところ李東陽が倦んだ顔をしたので、夫人は笑って「今日は客をもてなすのに、膳に魚も菜も無くてよいのですか」と言った。そこで喜んで筆を執り、しばらくしてやめた。その風格と気節はこの通りであった。