明史卷一百八十一 列傳第六十九 謝遷

出自と孝宗朝の輔政

  • 謝遷は字を于喬といい、餘姚の人。成化十年(1474年)の郷試第一、翌年の進士に挙げられてまた第一となり、修撰に任じられ、累進して左庶子に遷った。
  • 𢎞治元年(1488年)春、中官の郭鏞が予め妃嬪を選んで六宮を備えることを請うた。謝遷は上言して「山陵がまだ終わっておらず、礼として待つべきである。祥禫の期も年としてそう遠くない。陛下は御年若い。諒陰が終わってからゆるゆる議しても遅くない」と言った。尚書の周洪謨らも謝遷の議のとおりとし、従われた。
  • 帝が東宮にあったとき謝遷はすでに講官であった。このとき日講に加わり、誠を積んで帝の意を開くことに努めた。前夜には必ず衣冠を正して誦習し、進講にあたっては詳しく切実に述べたので、帝はしばしば善しと称した。
  • 少詹事兼侍講学士に進み、𢎞治八年(1495年)、李東陽とともに内閣に入って機務に参預するよう詔された。謝遷は当時、喪に服していたので力めて辞し、喪が明けてはじめて拝命し、詹事に進んで兼官は元のままとされた。
  • 皇太子が出閣すると太子少保・兵部尚書兼東閣大学士を加えられた。上疏して太子に賢に親しみ佞を遠ざけ、学問に勤め逸豫を戒めるよう勧め、帝はこれを嘉した。
  • 尚書の馬文升が大同の辺警で兵糧が足りないとして、南方の両税を銀に折る分を増やすよう請うた。謝遷は「先朝は南方の賦が重いために銀に折って寛げたのである。もし増額を議すれば民は命に堪えられまい。しかも国を足らせるのは用を節することにある。用度に節がなければ賦を加えても何の益があろう」と言った。尚書の倪岳も争ったので、議は沙汰止みとなった。
  • 孝宗は晩年、慨然として弊政を整理しようとしたが、内府の諸庫および倉場・馬坊では中官が奸を働き法を枉げて、究明のしようがなかった。御馬監の騰驤四衛の勇士は、自ら禁軍であって兵部に隷さぬとして、おおむね空名で糧を受け取り、その弊はとりわけ甚だしかった。
  • 謝遷は隙を見てこれを申し上げ、帝が旨を擬して禁約するよう命じたところ、謝遷は「空言で禁を設けても益はない。担当の役所に弊端を洗い出させ、明白に奏聞させたうえで厳しく条約を立て、犯せば必ず誅すようにすべきである。そうすれば積年の弊を除ける」と言った。帝は許した。
  • 謝遷は容儀が俊偉で、節を持して正直・明朗であった。劉健・李東陽とともに輔政したが、謝遷は事を見ることが明敏で議論を持することに巧みであった。当時の人はこれを評して「李公は謀り、劉公は断じ、謝公はとりわけ侃々たり」と言い、天下は賢相と称した。

武宗朝の失脚と復起

  • 武宗が位を嗣ぐと、たびたび少傅兼太子太傅を加えられた。しばしば諫めたが帝は聴かず、天変を機に強く辞職を求めたが、そのつど慰留された。
  • 劉瑾の誅殺を請うて果たせず、そのまま劉健とともに致仕して帰り、礼遇はいずれも劉健と同じであった。
  • しかし劉瑾の謝遷への恨みはやまなかった。焦芳は劉瑾に付いて内閣に入ったが、この者も謝遷を恨んでいた。かつて謝遷が王鏊・呉寛を自らの後任に挙げて自分に及ばなかったからである。そこで中旨を取って、謝遷の弟の兵部主事・謝迪を強いて罷め、子の編修・謝丕を斥けて民とした。
  • 正徳四年(1509年)二月、浙江が詔に応じて挙げた「懐才抱徳」の士に、餘姚の周禮・徐子元・許龍、上虞の徐文彪があり、いずれも謝遷の同郷で、詔を草したのは劉健であった。これを二人の罪にしようと、旨を偽って「餘姚の隠士がなぜこんなに多いのか。これは必ず私に徇って引き立てたのだ」とし、周禮らを詔獄に下した。供述は劉健と謝遷に及び、劉瑾は二人を逮えて家財を没収しようとした。李東陽が力めて取りなしたが、焦芳が傍らから厲声で「たとえ軽く赦すにしても除名すべきだ」と言い、旨は焦芳の言うとおりに下った。周禮らはみな辺に戍られた。
  • 尚書の劉宇はさらに両司以上が推挙を誤ったと弾劾し、米を罰せられ、籍を削られた者もあった。しかも「今後、餘姚の人は京官に選ばぬこと」と詔して令とした。
  • その年十二月、言官が劉瑾の意を迎えて、劉健・謝遷および尚書の馬文升・劉大夏・韓文・許進らの誥命を奪うよう請い、詔により賜った玉帯や服物もあわせて追還された。同時に誥命を奪われた者は六百七十五人であった。
  • このとき人はみな謝遷を危ぶんだが、謝遷は客と囲碁を打ち詩を賦して平然としていた。劉瑾が誅されると復職して致仕した。
  • 世宗が即位すると使いを遣って見舞い、謝迪を参議に起こし、謝丕を翰林に復官させた。謝遷はそこで子の謝正を遣って謝意を伝えさせ、帝に学に勤め祖に法り諫を納れるよう勧めた。優旨で答えられた。
  • 嘉靖二年(1523年)、再び担当官に見舞わせる詔が出た。
  • 嘉靖六年(1527年)、大学士の費宏が謝遷を自らの後任に挙げた。楊一清はこれを阻もうとし、張璁もまた力めて謝遷を挙げた。帝は行人に手敕を齎させて家から起用し、撫按の官に促して道に上らせるよう命じた。謝遷は七十九歳であったが、やむを得ず拝命した。
  • 到着したときには張璁がすでに入閣しており、楊一清は官が謝遷より高く、譲る気配がなかった。謝遷は在位数か月で強く辞職を求めた。帝は謝遷を待遇することいよいよ厚く、寒さを理由に朝参を免じ、除夕には御製の詩を賜い、病を告げれば医を遣り薬を賜い、光禄が酒食を届け、使者が道に相次いだ。謝遷はついに翌年正月に辞して帰った。
  • 嘉靖十年(1531年)、家で卒した。年八十三。太傅を贈られ、文正と諡された。
  • 謝迪は仕えて広東布政使に至った。謝丕は郷試第一、𢎞治末年の進士及第で、吏部左侍郎を歴任し、礼部尚書を贈られた。