明史卷一百八十一 列傳第六十九 劉健

劉健(字は希賢、?–1526年)は洛陽の人。同郷の閻禹錫・白良輔と交わって薛瑄の学統を受け、戸を閉ざして読書し典故に練達した。孝宗の東宮講官から内閣に入り、徐溥に代わって首輔となる。李東陽・謝遷とともに輔政して財用の濫費と斎醮を戒め、孝宗の顧命を受けた。武宗が立つと劉瑾ら八党の誅殺を求めて敗れ、致仕。劉瑾によって奸党の筆頭に挙げられ籍を削られたが、のち復官し、明代屈指の賢輔と称された。

年表(10件)

出自と孝宗朝の輔政

  • 劉健は字を希賢といい、洛陽の人。父の劉亮は三原の教諭で学行があった。
  • 劉健は若くして端正重厚、同郷の閻禹錫・白良輔と交わって河東の薛瑄の学統を受けた。天順四年(1460年)の進士に挙げられ、庶吉士に改まり、編修に任じられた。
  • 交遊を謝して戸を閉ざして読書したので、人は頑固と目したが、典故に練達し経世済民の志があった。
  • 成化初年、『英宗実録』の編修のとき、喪中から起用され、固辞したが許されなかった。書が成って修撰に進み、三たび遷って少詹事に至り、東宮の講官を充めて孝宗に知られた。
  • 孝宗が即位すると礼部右侍郎兼翰林学士に進み、内閣に入って機務に参預した。𢎞治四年(1491年)、尚書兼文淵閣大学士に進み、たびたび太子太保を加えられ、武英殿に改まった。𢎞治十一年(1498年)春、少傅兼太子太傅に進み、徐溥に代わって首輔となった。
  • 劉健は学問が深く純粋で、正色して敢えて言い、身をもって天下の重きを担った。
  • 清寧宮が火災に遭い、太監の李廣が罪を得て自殺したとき、劉健は同列の李東陽・謝遷とともに疏して言った。古の帝王で災に遇って懼れなかった者はない。これまで奸佞が聖聴を惑わし、賄賂が公然と行われ、賞罰は当を失った。災異が積もったのはまさにこれによる。今、幸いに元凶が滅び聖心が開かれたが、残る悪はまだ除かれず、宿弊はまだ革まっていない。伏して願わくは奮発し精を励まし、賢を進め奸を黜け、賞罰を明示し、行うべきことは断じて疑われぬよう。因循を改めずして後悔を残されるな、と。
  • 帝がその言を嘉して容れようとしていたところ、李廣の一党の蔡昭らがたちまち旨を取って李廣に祭葬と祠額を与えたので、劉健らが力めて諫め、わずかに祠額だけが取りやめとなった。
  • 南北の言官が時政を指摘して頻りに弾劾したが、一切が不問に付された。国子生の江瑢が「劉健と李東陽は言路を塞いでいる」と弾劾したとき、帝は劉健と李東陽を慰留して江瑢を獄に下したが、二人が力めて救って釈された。
  • 𢎞治十三年(1500年)四月、大同から警報があって京師が戒厳となり、兵部が京営の諸将の選別を請うた。帝は劉健および李東陽・謝遷を平臺に召して去留を面議し、遂安伯の陳韶ら三人を去らせ、鎮遠侯の顧溥を召して団営を督させた。当時、帝の視朝はかなり遅かったので劉健らが申し上げたが、頷かれるだけであった。

財用と辺務の建言

  • 𢎞治十四年(1501年)秋、帝は軍事の興起で兵糧が欠けたことからたびたび廷議に下した。劉健らは言った。
  • 天下の財はその生産に限りがある。今、光禄の年ごとの供給は数十倍に増え、諸方の織作は新奇を競い、斎醮の費えは日に巨万に上る。太倉の蓄えは戦士を養うにも足りぬのに、内府への取り込みは動もすれば四、五十万。宗藩や貴戚が土田を求め塩利を奪う額もまた数千万を数える。土木は日々興り、取り立ては止まず、伝奉の冗官の俸給、内府の工匠の扶持は年ごと月ごとに積み重なって果てがない。財がどうして尽きずにいられよう。
  • 今、陝西・遼東の辺患はまさに盛んで、湖広・貴州でも軍旅が続いて動いている。何をもってこれに応ずるのか。どうか陛下は無益の費えを絶ち、自ら節倹を行って中外の手本となり、群臣にその誠を尽くさせて弊を革める策を講究されたい。天下の幸いである、と。
  • 翌年四月、災異によって、朝講に勤め、財用を節し、斎醮を罷め、賞罰を公にすべきことなど数事を陳べた。冬になって南京・鳳陽が大水となり、廷臣の多くが時務を上言したが、久しく下されなかった。劉健らはそこで怠政の失を極論し、聴断に勤めて紀綱を振るうよう請うた。帝はいずれも嘉して容れた。
  • 『大明会典』が成り、少師兼太子太師・吏部尚書・華蓋殿大学士を加えられ、李東陽・謝遷とともに蟒衣を賜った。閣臣が蟒衣を賜るのは劉健らに始まる。
  • 帝は両宮の太后に孝を尽くして甚だ謹んだが、両宮はともに仏老を好んだ。これより先、清寧宮が成ったとき、灌頂国師に命じて壇を設けて慶讚させ、また中官を遣って真武の像を齎して武当山で醮を建てさせ、使いを泰山に遣って神袍を進め、あるいは白昼に市中で灯を散じた。帝は太后の意に背きにくく、曲げて従ったが、劉健らは甚だ力めて諫めた。
  • 𢎞治十五年(1502年)六月、釈迦の啞塔像の讚を擬すよう詔され、𢎞治十七年(1504年)二月には朝陽門外に延寿塔を建て、道士の杜永祺ら五人を真人に除するよう詔されたが、いずれも劉健らの力諫によって取りやめとなった。
  • その年の夏、小王子が大同を犯そうと謀ったので、帝は閣臣を召見した。劉健は京営の大帥を選ぶことを請い、あわせて「京軍は臆病で戦に堪えない。今後はその役作を罷めて鋭気を養われたい」と言った。帝はもっともとし、退いてさらに辺防の事宜を条上して、すべて許された。
  • まもなく辺の警報がしきりに至り、帝は中官の苗逵の言に惑わされて出師を望んだ。劉健は李東陽・謝遷とともに委曲に阻んだが、帝の意はまだ回らなかった。兵部尚書の劉大夏も「京軍は動かせない」と言ったので、ようやく取りやめとなった。
  • 帝は𢎞治十三年(1500年)に劉健らを召対して以来、閣臣が進見を得ることは稀であった。このころ在位が久しくなっていよいよ政事に明るくなり、たびたび大臣を召見して、順次、煩苛を革め宿弊を除こうとした。
  • かつて理財を論じたとき、李東陽が「塩政が壊れたのは請乞する者が多いためで、それによって私販が数倍になっている」と極言した。劉健は進み出て「太祖のとき茶法が行われ始めたが、駙馬の歐陽倫は私販に坐して死し、高皇后も救えなかった。歐陽倫のような事があれば、誰が敢えて陛下に取りなしを申し出よう」と言った。帝は「敢えて言わぬのではなく、言おうとしないのだ」と言い、そこで戸部に詔して利弊を調べ、議を具えて奏させた。
  • このとき劉健ら三人は心を同じくして輔政し、情を尽くし思慮を尽くして、知って言わぬことがなかった。はじめは容れられるものもられぬものもあったが、後にはいよいよ信任され、奏請するところは容れられぬものがなかった。「先生」と呼ばれて名を呼ばれず、進見のたびに帝は左右を退けた。左右がときに屏の間から盗み聞くと、帝がしきりに「善し」と称する声だけが聞こえた。文武大臣の進退、屯田・塩・馬の諸政の整備は劉健の翼賛によるところが多かった。

孝宗の顧命と武宗初年

  • まもなく帝の病が篤くなり、劉健らを乾清宮に召した。帝は病を押して起き坐り、即位の始末を自ら詳しく述べて近侍に書き取らせた。そののち劉健の手を執って「先生方の輔導はまことに苦労であった。東宮は聡明だが年がまだ幼く逸楽を好む。先生方は常に読書を勧め、輔けて賢主としてほしい」と言った。劉健らは嗚咽し頓首して命を受けて退出した。翌日、帝は崩じた。
  • 武宗が位を嗣ぐと、劉健らは諸々の弊政を整え、およそ孝宗が興そう、罷めようとされたことをすべて遺詔をもって実行した。
  • 劉瑾は東宮の旧い宦官で、馬永成・谷大用・魏彬・張永・邱聚・髙鳳・羅祥ら八人とともに用事し、当時これを「八党」と呼んだ。日々帝を遊戯に導いたので、詔の条項はおおむね阻まれて行われなかった。
  • 京師で六月から八月まで長雨が続いた。劉健らはそこで上言した。陛下の登極の詔が出て中外は歓呼し太平を待ち望んだ。今、二か月になるが、冗員をいくら汰め冗費をいくら省いたと聞かない。詔書に載せられたことは空文にすぎない。これが陰陽の調和を失い、雨と晴れが順わぬゆえんである。
  • 監局・倉庫・城門および四方の守備の内臣は数倍に増設された。朝廷が軍匠を養うには巨万を費やすのに、わずかにその役使に供するだけである。汰めずにおけようか。文武の臣で職を空しくし事を仕損じて禄を無駄にしている者を黜けずにおけようか。画師や工匠でみだりに官職を授けられた者が数百人に上るのを罷めずにおけようか。内承運庫は年々銀数百余万を支出しながら、はじめから帳簿がない。司鑰庫に貯えた銭数百万は有無すら分からない。照合せずにおけようか。
  • 内苑の珍禽奇獣を放ち、先朝の宮人を放遣することに至っては、いずれも新政でまず行うべきことである。それを陛下はすべて牽制されて行われない。何をもって四海の望みを慰められるのか、と。
  • 帝は温詔で答えたが、左右の宦官は日々ほしいままに振る舞って増長し、しかも日々数が増えた。郊廟の享祀には刀を帯び甲を着て駕の後に群がった。内府の諸監局の僉書は多いもので百数十人に及び、光禄の日々の供給は急に数倍に増えた。劉健らはその弊を極論し、政に勤め学を講ずるよう請うたが、上聞されるだけであった。

正徳元年の抗争

  • 正徳元年(1506年)二月、帝は尚書の韓文の言に従い、畿甸の皇荘は担当官に課を徴させることとしたが、荘ごとに宦官一人と校尉十人を留めた。劉健らは「皇荘はすでに両宮への進奉に充てられているのだから、すべて担当官に委ねるべきで、なお私人を主とすべきではない。かえって朝廷が尊親する意を失う」と言い、あわせて内臣が荘を管して民を騒がせていることを詳しく述べたが、顧みられなかった。
  • 吏・戸・兵の三部および都察院もそれぞれ疏して争い、職掌が近習に撓められていることを訴えた。劉健らが旨を擬したが上は従わず、擬し直せと命じた。劉健らは力めて諫めて言った。奸商の譚景清が塩政を壊したこと、北征の将士が功なくして官を授けられたこと、武臣の神英が罪を負いながら法を弄んだこと、御用監の書篆が濫りに考較に収められたこと、いずれも一、二人の私恩で百年の定制を壊すものである。
  • まして今、政令は一新されたはずなのに、地震・天鳴・白虹が日を貫き、恒星が昼に現れ、太陽に光がない。内の賦は縦横に取られ、外の寇は猖獗をきわめ、財は尽き民は窮し、怨謗が起こっている。それでいて中外の臣僕はまさに機に乗じて奸を働き、忠直を仇のように排し、奸邪を骨肉のように庇い、日ごとに前より甚だしくなっている。禍変の到来は遠くないのではないか。
  • 臣らは先帝に知られて腹心の任を叨った。近ごろは旨が中から下されて全く与り聞かず、擬議したことも結局は改易される。このような例は数え上げられない。もしさらに身家を惜しんで共に阿り順うなら、上を欺き国を誤ることになり、死んでも罪は余る。擬した四疏は改めることはできない。謹んで原案のまま封じて進める、と。返答はなかった。
  • 数日居ってまた言った。臣らは先帝に遇い、臨終の顧命に懇ろに陛下を託された。痛みは心に刻まれ、死をもって報いようと誓った。即位の詔書に天下は首を伸ばしたのに、朝令暮改で安らかな日がない。旨を受ける諸官・諸府は倣って風となり、放置して行わぬばかりか、変え尽くしている。建言する者を「多言」とし、事を処理する者を「事を生ずる」とし、章を重ねて執奏すれば「わずらわしい」とし、弊政を整理すれば「みだりに変える」とする。憂いが民生や国計にあれば聞かぬふりをし、事が近幸・貴戚に関われば牢固として破れない。
  • 臣らは不可と心得ており、義として言を尽くすべきである。先ごろ塩法や賞功の諸事について利害を極論したが、数日待っても批答を頂けない。臣らの言が是ならば施行を賜るべきであり、非ならばただちに叱責されるべきである。それを留め置いて返答されぬのは、無いものとして扱われているに等しい。政が多門から出て、咎は臣らに帰する。
  • 宋儒の朱子は「一日その位に立てば一日その官を務める。一日その官を果たせなければ、一日たりともその位に立つを敢えてしない」と言った。顧命の名を冒しながら輔導の実を尽くさなければ、先帝にも陛下にも背くことになる。天下後世は臣を何と言うか。伏して聖明の憐察を乞い、特に退休を賜られたい、と。
  • 帝は優旨をもって慰留したが、疏は依然として下されなかった。五日後、劉健らはまた上疏して政令の十失を数え挙げ、貴戚・近幸をとりわけ切実に指弾し、重ねて前の請いを申し立てた。帝はやむを得ず、はじめて前の疏を下して担当官に詳議を命じた。
  • 劉健は志がついに行われぬと知り、真っ先に章を上げて骸骨を乞い、李東陽・謝遷が続いた。帝はいずれも許さなかった。まもなく担当官の議が上がり、すべて劉健らの指摘どおりであったので、帝は勉めてこれに従った。これによって利を失った者たちはみな切歯した。

八党の誅殺を求めて敗れ、致仕

  • 六月庚午、また上言した。近ごろ朝を免ずることが多すぎ、奏事はしだいに遅くなり、遊戯はしだいに広がり、経筵・日講は停止を命じられた。臣らは愚昧で、陛下の宮中にこれより急な何事があるのか分からない。そもそも濫賞と妄費は倹徳を崇めるゆえんでなく、弾射や釣猟は仁心を養うゆえんでない。鷹犬や狐兎は田野の物であって朝廷で育てるべきでなく、弓矢や甲冑は戦闘の象であって宮禁で用いるべきでない。今、聖学は久しく廃れ、正しい人は親しまれず、直言は聞かれず、下情は達せず、しかもこの数事が目の前で入り乱れている。臣は憂懼に堪えない、と。
  • 帝は「朕は、帝王は過ちなきを得ぬが過ちを改めるのが貴いと聞いている。卿らの言は是である。朕はこれを行おう」と言った。
  • 劉健らはそこで廷臣が陳べた時政のうち切要なものを録して、坐右に置いて朝夕省覧されるよう請うた。すなわち、単騎で駆け軽々しく宮禁を出ないこと。しばしば監局に行幸し海子で舟遊びをしないこと。鷹犬や弾射に耽らないこと。内侍が進献する飲膳を受けないこと。疏が入り、上聞された。
  • これより先、孝宗の山陵が終わると劉健らはただちに経筵の開講を請うた。帝ははじめ勉めて応じたが、後はしばしば両宮への朝謁を理由に講を止め、あるいは日を選んで乗馬すると言った。劉健らは甚だ切に陳諫した。
  • 八月に至り、帝の大婚が済んでから劉健らがまた開講を請うと、九月まで待てと命じられ、その時期になるとまた午講の停止を命じられた。劉健らは先帝の故事として日に二度の進講を力争したが通らなかった。
  • このとき劉健らが懇切に疏諫することはたびたびに及んだが、帝は群小に狎れ親しんでついに改められなかった。
  • まもなく中官の崔杲らを遣って織造を督させ、塩一万二千引を求めた。担当官が執奏し、給事中の陶諧・徐昻、御史の杜旻・卲清・楊儀らが前後して諫め、劉健らも不可と言った。帝は劉健らを煖閣に召して面議し、かなり詰問したが、劉健らはみな正論で答え、帝は言い負かせなかった。最後に帝は正色して「天下の事はみな内官が壊したのか。朝臣で事を壊す者が十のうち六、七である。先生方も自ら知っておられよう」と言い、そのまま塩引はすべて崔杲の請いどおりにせよと命じた。
  • 劉健らは退いて再び章を上げて不可と言った。帝は自ら失言を愧じ、劉健らの奏を容れた。そこで中外はみな喜び、帝が過ちを改めそうだと考えた。
  • 劉健らはそこで八党を除こうと図り、章を連ねて誅殺を請うた。言官もまた交わるがわる諸宦官の罪状を論じ、劉健および謝遷・李東陽はその章を甚だ力めて支持した。
  • 帝は司礼を内閣に遣って「朕はもう改める。朕のために曲げてあの者どもを赦してくれ」と言わせた。劉健らは「これらは祖宗に罪を得た者であり、陛下が赦せるものではない」と言った。さらに上言した。人君が小人に対して、知らずに誤って用いるなら、天下はなお知って除くことを望む。知りながら除かなければ、小人はいよいよほしいままになり君子はいよいよ危うくなり、乱亡に至らずには止まない。しかも邪と正は両立しない。今、朝廷こぞってこの数人を除こうとしているのに、陛下はその罪を知りながらわざと左右に留めておられる。朝臣が疑い懼れるだけでなく、この数人もまた自ら安んじない。上下が互いに猜疑し中外が協わなければ、禍乱の機はここに始まる、と。聴かれなかった。
  • 劉健らが去就をかけて争ったので、劉瑾ら八人は甚だ窮し、互いに向き合って涕泣した。そこへ尚書の韓文らの疏がまた入った。
  • 帝は司礼の王岳らに命じて内閣に赴かせ、一日に三度議させた。劉瑾らを南京に安置しようとしたところ、謝遷はそのまま誅すことを望んだ。劉健は机を押して哭き「先帝は崩御のとき老臣の手を執って大事を託された。今、陵の土もまだ乾かぬうちに、あの者どもにここまで壊させた。臣は死んで何の面目で先帝にまみえよう」と言い、声色ともに厳しかった。
  • 王岳はもとより剛正で邪を憎んでいたので、慨然として「閣議が是である」と言い、その同僚の范亨・徐智らもそのとおりだと言った。
  • その夜、八人はいよいよ切迫して帝の前を取り囲んで泣いた。帝は怒って、ただちに王岳らを捕えて詔獄に下した。劉健らはこれを知らず、なお王岳が内で応じてくれると頼りにしていた。
  • 翌日、韓文が九卿を率いて闕に伏して固く争った。劉健は迎えて「事はうまくいく。公らはただ堅く持ちこたえよ」と言った。ほどなく事は一変し、八人はみな宥されて問われず、劉瑾が司礼を掌った。
  • 劉健と謝遷はそこで致仕を乞い、敕を賜り駅伝で帰り、月々の廩と年ごとの夫は先例どおりとされた。
  • 劉健が去った後も劉瑾の恨みはやまず、翌年三月辛未、五十三人を奸党として列挙する詔が出て朝堂に掲示され、劉健はその筆頭とされた。さらに二年後、籍を削られて民とされ、誥命を追奪された。劉瑾が誅されると官に復して致仕した。
  • 後に帝がたびたび巡遊すると聞くたびに、嘆息して食を絶ち「私は先帝に背いた」と言った。
  • 世宗が立つと、行人に敕を齎させて見舞わせ、司馬光・文彦博になぞらえ、恩賜を加えた。年が九十に達すると、詔により撫臣が邸に赴いて束帛・餼羊・上尊を届け、その孫の劉成学を中書舎人とした。
  • 嘉靖五年(1526年)に卒した。年九十四。遺表は数千言で、帝に身を正し学に勤め賢に親しみ佞を遠ざけるよう勧めた。帝は震え悼んで賻恤を甚だ厚くし、太師を贈って文靖と諡した。
  • 劉健は器局が厳整で、己を正して下を率い、朝から退けば僚属の私謁には一言も交わさなかった。許進ら七人が焦芳を吏部に推そうとしたとき、劉健は「老夫はまもなく田に帰る。この座はすぐ焦のものになろう。諸公がみなその害を受けるのが心配だ」と言った。後に七人は果たして焦芳に排斥された。
  • 李東陽は詩文で後進を引き、海内の士はみな手を打って文学を談じたが、劉健は聞かぬふりをして、ひとり人に経を治め理を窮めることを教えた。その事業は光明かつ俊偉で、明代の輔臣で比肩できる者は稀である。孫の劉望之は進士。