明史卷一百八十 列傳第六十八 屈伸

諫官としての争論

  • 屈伸は字を引之といい、任邱の人。成化末年の進士。庶吉士に選ばれ、礼科給事中に任じられた。
  • 𢎞治九年(1496年)、詔により僧に度牒を与えようとしたとき、礼部が争っても止められなかったので、屈伸が三つの不可を極論したが容れられなかった。
  • 京師の民のあいだに敵が辺に近づいたとの訛言が流れ、兵部が榜を出して諭すよう請うた。屈伸は言った。榜で示せば人心はいっそう驚く。昔、漢の建始年間、都の人が大水が来るとの訛言を流し、吏民を城に上らせて避けさせようという議が出たが、王商は従わず、ほどなく果たして鎮まった。今もこれを手本とすべきである、と。事は沙汰止みとなった。
  • 敵が大同を侵し、遊撃の王杲が敗績を隠したので、屈伸は同官を率いてこれを摘発し、あわせて総兵官の王璽らの罪を弾劾した。たびたび遷って兵科都給事中となった。
  • 泰寧衛の部長が遼陽を大掠したとき、部の議は守臣に書を送らせ、「朝廷は寛大で既往を咎めない。掠めたものを返せば重賞を与える」と称させようとした。屈伸らは言った。我が方は怯弱の形を示し、彼の方には懲りる意がない。王者が威をもって攘う道ではない。先日は辺を犯しても罪とせず、今日は俘を返せば逆に功とする。盗を働けば得だと教え、無頼の心を啓くもので、これまた王者が懐柔する道ではない、と。帝は悟り、書はついに遣られなかった。
  • その後、鎮守中官の孫振、総兵官の蔣驥、巡撫の陳瑤が事を仕損じた罪を弾劾したが、帝は問わなかった。広寧で再び失態があったのに陳瑤らが捷報として上げたので、屈伸および御史の耿明らが章を交わしてその欺罔を弾劾し、ようやく取り調べられた。
  • 太監の苗逵、成國公の朱暉らが巣を衝いて三級を獲、敵が固原に大挙して侵入したときは救わず、その後に十二級を斬獲し、前後して捷報を上げた。屈伸らはたびたびこれを弾劾し、班師にあたって極論した。
  • 朱暉らは西征に功なく、班師の命が下ったばかりなのに将士はすでに国門に入っている。いかなる詔書を奉じたのか分からない。しかもこの一役で京帑と辺の蓄えを併せて百六十余万両を糜しながら、首功はわずか三級である。五十万金で名も無き首一つを買ったことになる。それでいて功ありとして上げた将士は一万余人に及ぶ。仮に和碩のような首魁を馘り、あるいは斬級が千百に達したら、天下の財を尽くしても費用を賄えず、功を報ぜられる者は幾万万になるか分からない。朱暉・苗逵および都御史の史琳、監軍御史の王用はすべて重典に処すべきである、と。帝は聴かなかった。
  • 雲南にはすでに鎮守中官がいるのに、さらに監丞の孫叙を遣って金・騰を鎮させようとしたので、屈伸らは不可を極言した。
  • 錦衣指揮の孫鑾が罪に坐して閑住となっていたのを、中旨で復して南鎮撫の事を掌らせようとしたので、屈伸らが力争し、俸を帯びるだけに留めるよう命じられた。
  • 中旨で指揮の胡震に天津を分守させようとしたときも屈伸は力争したが、聴かれなかった。
  • 鎮守河南の中官・劉瑯が皁隸を乞い、帝が五十人を与えるよう命じたが、先例では尚書でもわずか十二人である。屈伸らが力争して、詔で二十人減らすに留まった。これ以来、中官はみな先例を引いて願い出るようになり、祖制はついに壊れた。
  • 屈伸は諫官の職に長くあり、議論を持すること侃々として撓まなかった。遷らぬうちに卒した。