孝宗初年の直言
- 曹璘は字を廷暉といい、襄陽の人。成化十四年(1478年)の進士で、行人に任じられ、久しくして選ばれて御史となった。
- 孝宗が位を嗣ぐと疏して言った。梓宮の発引には、陛下は喪服に杖と草履で大明門の外まで送り、拝して哭して別れ、宮中を率いて三年の喪を行われたい。貴妃の萬氏には罪があるので、先帝に告げてその諡を削り、他所に改葬されたい、と。帝はその奏を容れたが、貴妃の件は口にせぬよう戒めた。
- ほどなく、王恕ら諸大臣の登用、先朝で言事した于大節ら諸臣の復官、宮中の怨女の放遣、京営の監督および四方の鎮守太監の撤廃を請うた。
- また言った。梁芳は指揮の袁輅が地を献じて寺を建てたことを理由に、廣平侯の爵を襲わせるよう請うている。数畝の地で侯を得られるのでは、勲臣の誰が心を離さずにいよう。急ぎ革め罷めるべきである、と。疏が奏されると、帝はかなりこれを採った。
- 𢎞治元年(1488年)七月、上言した。近ごろ星が隕ち地が震え、金星・木星が昼に現れ、雷が禁門を撃ち、皇陵に雹が降り、南京の内園が火災に遭い、狂夫が門で叫び、景寧では白気が飛騰した。それなのに陛下は咎を招いた理由を深く求めず、災いを消す実を尽くしておられない。
- 経筵は開かれても具文にすぎず、始めたかと思えば休み、しばらく行えばすぐに罷める。いわゆる「一日これを暴し、十日これを寒からしむ」である。どうか日々講殿にお出ましになり儒臣と論議し、大学士の劉吉らを罷斥して天変を消されたい。
- 臣は昨冬、陛下に墨衰で政を視られるよう請うた。今は節序が巡るたびに次第に黄の衮を召され、従官も朱緋を着ている。三年のうちに幾日あろうか。ただ淡い服を用いられるべきである。
- しかも陛下は諒陰の最中であるのに、少監の郭鏞は妃嬪の選定を請うた。拒んで容れられなかったとはいえ、郭鏞がなお任用されているのでは、臣民の疑いをどう解かれるのか。
- 祖宗は自ら宮刑する者を厳禁されたが、今この輩が進みを求めて入り乱れている。罪を論ずべきである。
- 朝廷がわざわざ書堂を設け、翰林官に内使を教習させているのは、もともと高皇帝の制ではない。詞臣の多くはこれを伝手に進みを求め、内官もまた儒術を借りて奸を飾っている。速やかに罷めるべきである。
- 諸辺に警報があるたびに京軍に北征を命じられるが、この輩は驕り怠けて久しく、用いるに足りない。今後は遣わさず、出師の費用を辺軍の賞に充てられたい、と。
- 帝は疏を得て喜ばず、旨を降して譴責した。
- 後に広東を巡按したとき、陳獻章を新会に訪ね、その言論に服し、そのまま病と称して帰り、山中に居って読書すること三十年、城市に入らなかった。