明史卷一百八十 列傳第六十八 汪奎
汪奎(字は文燦、婺源の人、?–1511年)は、成化二年の進士。秀水知県から御史に抜擢され、成化二十一年の星変に際して同官とともに十事を陳べ、妖僧繼曉と中官梁芳の誅、李孜省ら伝奉官の排除、無能な大臣の致仕、鎮守内官の撤収などを名指しで求めた。帝の忌みに触れたが譴責は免れ、のち別件で廷杖されて䕫州通判に出された。孝宗の代に成都知府・広西左布政使を歴任し、弘治十四年に貴州巡撫となったが米魯の乱で弾劾されて致仕した。附伝に、従子で饑民百二十万を活かした汪舜民、および同じ星変の求言に応じて直言した崔陞・彭綱・蘇章・周軫・李旦らがある。
年表(9件)
- 成化二年1466年進士に及第し、秀水知県を経て御史に抜擢される
- 成化二十一年1485年星変に際し同官と十事を陳べ、繼曉の斬と梁芳らの処断を請う
- 𢎞治十四年1501年右副都御史として貴州を巡撫するが、米魯の乱により弾劾され致仕する
- 正徳六年1511年卒す
- 成化十四年1478年従子の汪舜民が進士に及第し、行人を経て御史に抜擢される
- 正徳二年1507年汪舜民が右副都御史として鄖陽を撫治し、南京へ移る途中で卒す
- 成化五年1469年附伝の崔陞・盧瑀が進士に及第する
- 成化十一年1475年附伝の彭綱・蘇章・周軫・秦昇・童柷が進士に及第する
- 成化十七年1481年附伝の李旦・王純が進士に及第する
星変に際しての十事
- 汪奎は字を文燦といい、婺源の人。成化二年(1466年)の進士で、秀水知県となり、御史に抜擢された。
- 成化二十一年(1485年)の星変に際し、同官とともに疏して十事を陳べた。建言によって貶謫された諸臣は国に忠を尽くしたのだから復職させるべきこと。妖僧の繼曉は中官の梁芳と結んで内蔵を耗竭させたので、梁芳の罪を治め繼曉を都市で斬られたいこと。伝奉官の顧賢らはみな中官の恒の従子でありながら錦衣を騙り、李孜省は小吏でありながら通政を授かっているので、ことごとく斥けて仕途を清められたいこと。
- あわせて言う。尚書の殷謙・李本、侍郎の杜銘・尹直はみなもとより清らかな評判に乏しく、尚書の張鵬・張鎣・張瑄、侍郎の杜謙・艾福・馬顯・劉俊、大理卿の宋欽、巡撫都御史の魯能・馬馴はみな老懦で無能、侍郎の談倫は奔走して恥を知らず、巡撫の趙文博は粗野で妄りに事を行い、大理卿の田景暘は素行が慎まぬ。いずれも致仕させられたい。
- 鎮守・守備の内官は天順年間に比べて数倍に及び、威福を作して有司を凌虐している。浙江の張慶、四川の蔡用は四品以下の官を逮捕して取り調べる権を得ており、とりわけ国体を損なう。すべて撤して還されたい。
- 内外の坐営・監鎗の内官は増設が多すぎ、みな私に軍士を使役して月銭を納めさせ、多い者は二、三百人に及ぶ。武将もまた私に健丁を使役し、行伍には老弱ばかりが残っている。
- 勲戚や内官は塩の利を奏請し、満載して南行し、行く先々で欽賜の黄旗を掲げるので、商旅は通わず辺の蓄えは損なわれる。あわせて厳禁されたい。
- 陝西・山西・河南は連年の水旱で死者と移住者が大半を占め、山陝の民はわずかしか残っていない。被災の郡県を調べて一律に免除を与えられたい。
- 給事中の張善吉は先に罪に坐して官を謫され、考績で京に至ったとき、夜陰に憐れみを乞うてこの職を得た。清班を大いに汚しているので罷斥されたい。
- 山陝・河洛の饑民の多くが鄖・襄に流れ、骨肉相食むに至っている。大いに国庫と倉を開いて振済し、他の変を未然に防がれたい、と。
- 当時、帝は災変によって言を求めていたので、汪奎の疏は帝の忌みに触れたものの譴責は加えられなかった。
- ほどなく、ある御史が儀を失したので、汪奎は面前で糾弾すべきところ、退朝してから奏した。帝はその怠慢を咎めて廷杖した。
- 数か月居って再び䕫州通判として出、雲陽の強賊を討ち平らげた。孝宗が立つと敘州同知に移され、推薦により成都知府に抜擢された。凶作の年に盗が多かったが、賑救したので多くが復業した。三たび遷って広西左布政使となった。
- 𢎞治十四年(1501年)、右副都御史として貴州を巡撫したが、一年経たぬうちに普安の賊婦・米魯が乱を起こしたので、弾劾されて致仕した。正徳六年(1511年)に卒した。
汪舜民(汪奎伝附)
- 従子の汪舜民は字を從仁といい、成化十四年(1478年)の進士で、行人に任じられ、御史に抜擢された。
- 甘粛を巡按して中官や将帥の失態を弾劾し、辺の計を陳べること数十章に上った。これより先、汪奎が闕下で杖打たれたとき、汪舜民が助け支えたので、帝はこれを聞いて怒っていた。このとき奏した獄情の言葉が不当だとして、蒙化衛経歴に貶された。
- 𢎞治初年、東莞知県に遷ったが赴任せぬうちに江西僉事に抜擢された。訴訟の裁きに巧みで、剖析は流れるようであった。その軍籍整理の法は後人に遵守された。
- 雲南屯田副使に改まり、勢家に奪われていた田を整理して官に還した。麓川の道孽である思禄が金沙江を渡って孟宻に拠ったので、檄を承けてこれを撫定した。
- 母の喪で帰り、喪が明けたとき、ちょうど淮・揚が大飢饉であったので、元の官のまま命を奉じて振済し、便宜に粟を出し、急がぬ事務の停止を奏して、饑民百二十万人を活かし、流民で復業した者は八千余戸に上った。
- 福建按察使に進んだ。福清県の庫が盗まれたとき、ある者がその怨家を誣いてすでに獄が成っていたが、汪舜民は真犯人を突き止め、三十人を死から脱れさせ、誣告した者を罪に当てた。
- 旱の年に祈っても験がなかったので、自ら福州の獄に臨んで冤罪の者や軽罪の者を釈した。管内の担当官がみな獄を清めると、大雨が降った。
- 河南左右布政使を歴任し、正徳二年(1507年)、右副都御史として鄖陽を撫治したが、ひと月ばかりで天下の巡撫官が廃されたので南京都察院に移り、途中で卒した。
- 汪奎の性は簡素静穏で、取ることも与えることも苟且にせず、篤実で称された。汪舜民は学を好み行いを磨き、矯々として風節を持したので、とりわけ時望を負った。
崔陞・彭綱・蘇章・周軫・李旦ら(汪奎伝附)
- 星変によって言を求められたとき、九卿はそれぞれ数事を条奏したが、おおむね憚るところがあり、甚だ激しく直言する者はなかった。ただ汪奎と李俊らの言が最も率直であった。
- 武選員外郎の崔陞・彭綱、主事の蘇章、戸部主事の周軫、刑部主事の李旦にもみな発言があった。崔陞と蘇章は宦官と妖僧の罪を言って速やかに誅殺・流竄することを請い、あわせて尚書の王恕は今の伊尹・傅説であるから南京に置くべきでないと言った。彭綱は李孜省と繼曉を斥け、誅して天下に謝すよう請うた。周軫もまた梁芳・李孜省を誅し、あわせて内侍を汰め方書を罷めるよう請うた。李旦は十事を陳べ、あわせて「神仙・仏老、外戚、女謁、声色、貨利、奇技淫巧はみな陛下がかねて惑溺されるところで、左右の近習が交わるがわるこれに誘っている」と言い、言辞は甚だ切実であった。
- 帝はちょうど修省中であったので、いずれも罪しなかった。
- 後に、吏が旧く外蕃に賜った敕を盗み売った事件があり、事は彭綱の管掌する吏に及んだ。彭綱を外に貶し、密かに吏部尚書の尹旻に諭して李旦らを外に出させ、さらに六十人の姓名を屏風に書いておいて、遷任の奏があれば遠悪の地に貶することとした。
- 李旦はそこで給事中の盧瑀・秦昇・童柷と同じ日にともに謫された。部の臣は遠謫される者が多いのを見て、遷るべき者があってもわざと遅らせたので、崔陞と周軫は免れた。
- 崔陞は字を廷進といい、もと樂安の人。父が彰徳庫大使であったのでその地に家した。成化五年(1469年)の進士で、工部主事から兵部に改まり、やや遷って延安知府、四川参政となった。官を守って清廉で、常に布の袍を着、家の童は馬糞を拾って炊事に充てた。家居すること三十年、年八十八で卒した。子の崔銑には別に伝がある。
- 彭綱は清江の人。蘇章・周軫・秦昇・童柷とともにみな成化十一年(1475年)の進士。永寧知州に貶され、汝州に改まり、渠を鑿って田数千畝を灌漑した。再び遷って雲南提学副使となった。
- 蘇章は餘干の人。姚安通判に貶され、再び遷って延平知府となり政績があった。浙江参政で終わった。
- 周軫は莆田の人。副使の周瑛の従子。後に郎中に進み、山東運使で終わった。
- 李旦は字を啓東といい、獻縣の人。成化十七年(1481年)の進士。鎮遠通判に貶され、まもなく卒した。
- 盧瑀は鄞の人。成化五年(1469年)の進士。刑科給事中となり、疏して淮・揚の未納の課十余万を免じ、西北で戦馬を強制的に買い上げる積年の弊を清めた。かつて帝の怒りに触れて杖打たれた。まもなく工科都給事中に遷り、秦昇・童柷とともに星変によって陳言して譴責を受けた。盧瑀は長沙通判に貶され、広平知府で終わった。
- 秦昇は南昌の人。廣安州同知に貶された。童柷は蘭谿の人。興国州同知に貶され、袁州知府で終わった。
- このとき崔陞は王恕の召還を請うて旨に逆らい、工部主事の王純もまた王恕が杖打たれ官を謫されたことを諫めて罷められた。王純は仙居の人。成化十七年(1481年)の進士。思南推官に貶され、𢎞治年間にたびたび遷って湖広提学僉事となった。