明史卷一百八十 列傳第六十八 湯鼐

湯鼐(字は用之、夀州の人)は、成化十一年の進士。孝宗の即位とともに真っ先に大学士萬安を弾劾し、左順門で跪くよう命じられても旨の有無を問いただしたという剛直の御史。萬安・尹直が斥けられた後も劉吉ひとりが残ることを攻め、司礼中官の李榮・蕭敬を弾劾し、王恕・王竑・彭韶らの召還を請うた。その鋭さは大臣に畏れられ、劉吉の意を承けた御史魏璋の策謀により、中書舎人吉人の獄に朋党として連坐し、賄賂を理由に肅州へ戍られた。同じ獄で劉槩は妖言として斬罪に問われかけ、王恕と何喬新らの弁護でようやく減死。湯鼐は久しく経て釈され帰郷した。

年表(4件)

孝宗初年の弾劾

  • 湯鼐は字を用之といい、夀州の人。成化十一年(1475年)の進士で、行人に任じられ、御史に抜擢された。
  • 孝宗が位を嗣ぐと、真っ先に大学士の萬安が上を欺き国を誤ったことを弾劾した。翌日、左順門に呼び出され、中官が居並ぶなか跪くよう命じられた。湯鼐は「私を跪かせるのは旨によるのか、それとも太監の意によるのか」と言い、「旨がある」と答えられてはじめて跪いた。旨が宣べられると「疏はすでに留め置いた」とあったので、湯鼐は声高に「臣が申したのは国家の大事である。どうして留め置かれるのか」と言った。まもなく萬安は斥けられ、湯鼐も畿輔の印馬に出された。
  • 湯鼐は馳せて疏を上げた。陛下は視朝の暇に便殿にお出ましになり、侍臣のうち端正で謹厚な者、劉健・謝遷・程敏政・呉寛のごとき者を選んで日々講学し道を論じ、治を出すもととされたい。内閣の尹直、尚書の李裕、都御史の劉敷、侍郎の黄景は奸邪で恥を知らず、あるいは中官に伝手を求めて進用され、あるいは佞幸に依って私を行っている。早く駆逐しなければ必ず聖明に累を及ぼす。司礼中官の李榮・蕭敬はかつて言官に弾劾されて罷められたが、まもなく伝手を求めて復帰し、言官の過ちを摘発してほとんど残らず貶し竄したので、士気は萎えている。速やかに刑を正し姑息にされぬよう。伝奉で官を得た諸人はことごとく瘴癘の地に編置して天下に戒めを示されたい。あわせて致仕尚書の王恕・王竑、都御史の彭韶、僉事の章懋らを召し、建言によって罪を得た諸臣を還して風節を励まされたい、と。上聞された。
  • 𢎞治元年(1488年)正月、湯鼐はさらに礼部尚書の周洪謨、侍郎の倪岳・張悅、南京兵部尚書の馬文升を弾劾した。あわせて言った。少傅の劉古は萬安・尹直と奸貪において等しいだけである。萬安と尹直は斥けられたのに劉吉だけが官に進んで恥ともしていない。大いに黜陟を明らかにし、勧懲をはっきり示されたい、と。また李榮・蕭敬を弾劾し、謫降された進士の李文祥を台諫に薦めた。
  • 尚書の王恕が盛暑を理由に経筵の中止を請うたとき、湯鼐は不可を極言し、言葉は王恕にも及んだ。
  • このころ帝は庶政を刷新し、言路が大いに開かれたので、新進の者は競って功名を現そうとし、封章が入り乱れ、かなり激しい暴きに流れた。湯鼐の意気はとりわけ鋭く、その攻撃は海内の人望にも及んだので、大臣の多くはこれを畏れた。とりわけ劉吉は堪えられず、人をやって御史の魏璋を陥れようとして「君が湯鼐を除けるなら僉院の事を行わせよう」と言った。魏璋は喜んで承知し、夜も湯鼐の隙を伺った。

吉人の獄――湯鼐・劉槩らの連坐

  • まもなく吉人の獄が起こった。吉人は長安の人。成化末年の進士で中書舎人であった。四川が飢饉のとき、帝が郎中の江漢を遣って賑わせたが、吉人は「江漢は任に堪えない。四人の使者を遣って道を分けて賑わせ、あわせて才能ある御史を選んで巡按とすれば荒政に益がある」と言い、給事中の守琮・陳璚・韓鼎、御史の曹璘、郎中の王沂・洪鐘、員外郎の東思誠、評事の王寅、理刑知県の韓福および夀州知州の劉槩を使いにするよう薦め、巡按には湯鼐が任に足ると言った。
  • 魏璋はそこで疏を草し、御史の陳景隆らの名を偽って署し、吉人が成命に抵抗し私に朋党を立てていると言った。帝は怒って吉人を詔獄に下し、自らその党を挙げさせた。吉人は湯鼐・曹璘・東思成・劉槩・韓福を挙げて答えた。
  • 魏璋はさらに御史の陳璧らをけしかけ、「曹璘・韓福・東思誠はその党ではない。その党とは湯鼐・劉槩および主事の李文祥、庶吉士の鄒智、知州の董傑である」と言わせた。
  • 劉槩はかつて湯鼐に白金を贈り、書を寄せて言っていた。夜の夢に、ある人が牛に騎って落ちかけたのを湯鼐が手を引いて倒れずに済ませ、また湯鼐が五色の石を手にして牛を道に導くのを見た、と。そして解いて「人が牛に騎るのは朱の字。朱は国姓である。思うに国が傾こうとするのを湯鼐が支え、君を正道に導くということだ」と言っていた。
  • 陳璧らは、湯鼐・劉槩らが互いに標榜し合って時政を誹謗していると言い、李文祥・鄒智・董傑もあわせて逮捕して取り調べるよう請うた。疏が上がると劉吉が中から後押しし、ことごとく詔獄に下してすべて死罪に処そうとした。刑部尚書の何喬新、侍郎の彭韶らがこれを支え、外の議論も騒然として不平であった。
  • そこで劉槩を妖言の律で斬罪、湯鼐は賄賂を受けたとして肅州に戍らせ、吉人は欺罔として籍を削り、鄒智・李文祥・董傑はみな官を謫することとなった。
  • 吏部尚書の王恕が奏した。律が妖言を重く罰するのは、符讖の類を作ることを言うのである。劉槩の書の文言はみだりではあるが、実は湯鼐がたびたび言事して利害を避けなかったことを持ち上げただけである。今これを妖言とするなら、仮に「亡秦の讖」のようなものを作る者があったとき、いったい何をもって罪するのか、と。帝は疏を得て意が動き、しばらく獄に繋いでおくよう命じた。
  • そののち熱審のとき、何喬新らが「劉槩はもともと妖言の律に当たらない。しかも劉槩は五歳で父を失い兄弟もなく、母の孫氏は節を守ること三十年ですでに旌表を受けており、老病でしかも貧しい。劉槩が死ねば母は必ず全うできない。聖恩の憐れみを乞う」と言った。そこで劉槩は死一等を減じて海州に戍らされた。
  • 劉槩は濟寧の人。成化二十年(1484年)の進士で、夀州知州に除せられ、境内の淫祠をほとんど残らず毀ち、三年で教化が大いに行われた。
  • 𢎞治初年に上言した。刑賞と予奪は人主の大柄であるのに、後世これを女子・小人・強臣・外戚に盗まれることがあるのは、この輩が心は険しく術は巧みで、人主が少しでも親信すればたちまちその計に落ちるからである。愛する者については君の喜びに乗じて浮いた言葉で持ち上げ、憎む者については君の怒りに乗じて微かな言葉で中傷する。こうして賢人君子はついに曖昧なまま去らされる。卿相に欠員が出れば引き延ばして餌を垂れ、通じて依頼を聞き入れる、柔和で御しやすい人物が現れるのを待ってから薦め用いる。剛正で阿らぬ者は言いがかりをつけて放逐し、その気力が衰え思慮が変わって大きく異を立てなくなってから改めて登用する。この巧計が行われれば、刑賞・予奪は名目こそ人主が独り操るものでも、実はすべてその者の弄ぶところから出る。党が立ち勢いが成れば、今度は一朝に露見することを恐れて、極力、諫諍の士を排し、その君を上に孤立させ、耳に聞くところなく目に見るところなくして私を便にしようと図る。身と国がともに敗れるまでやめない。それゆえ刑賞・予奪は必ず大臣の奏請と台諫の集議を経てから行い、矯め誣いる者があれば徹底して糺し軽々に赦さぬようにすれば、讒佞は割り込めず権は下に移らない、と。
  • 考績のため都に赴いて禍に遭い、ついに戍所で卒した。
  • 湯鼐は戍られてから援ける者がなく、久しくしてようやく釈されて帰った。
  • 董傑は涇縣の人。成化末年の進士。湯鼐が暑月の講筵中止を論じたとき、董傑はちょうど選を受けようとしていたが、やはり抗疏して争ったので、これによって知られた。沔陽知州に任じられ、数か月で詔獄に逮繋され、四川行都司知事に謫された。歴任して河南左布政使となり、行く先々で職務を尽くして民に慕われた。正徳六年(1511年)、江西に盗が起こり、巡撫の王哲が敗れて召還されたので、董傑を右副都御史に抜擢して代えたが、まもなく卒した。
  • 魏璋は劉吉の腹心となって果たして大理寺丞に抜擢されたが、事に坐して下獄し、九江同知に落とされ、悶々として死んだ。