明史卷一百八十 列傳第六十八 王瑞

伝奉官の濫設を糺す

  • 王瑞は字を良璧といい、望江の人。成化五年(1469年)の進士で、吏科給事中に任じられた。
  • かつて文華殿で「内寵が甚だしくなっている」と直言し、言辞は硬骨で率直であったので、帝は震怒し、同列は震え上がったが、王瑞に恐れる色はなかった。
  • 成化十五年(1479年)、天下の進表の官がそれぞれ地方の利病を陳べるよう請うたが、帝はその煩わしさを憎んで杖打った。
  • 湖広・江西の撫按官が管内の災害と盗賊の発生を理由に、担当官の朝覲を免ずるよう請うた。王瑞らは言った。凶作で民が困っているのは担当官が職を果たさぬからで、まさに罪すべきところを、逆に留任を請うている。正官が留まれば人才の進退はどうやって審らかに弁じられよう。それでは朝覲と考察の二大典がともにこれによって廃れ壊れる、と。帝はその言をもっともとし、ただちに吏部に禁じさせた。
  • 都給事中に進んで言った。三年ごとの黜陟は朝廷の大典である。今、布政・按察の二司の賢否は撫按の牒報によるが、その他は布政・按察の□(底本欠字)の覆審によっており、情に任せた毀誉が多く事実を失うことが多い。挙劾を誤った者は連坐させられたい、と。
  • 成化十九年(1483年)冬、王瑞は伝奉による冗員が仕途を乱しているとして、同官を率いて奏した。祖宗が官を設けるには定員があり、もとより僥倖で進む道はなかった。近ごろ納粟で冠帯を許す制ができたが、それも身を栄えさせるだけで職には任じなかった。今は僥倖の門が大きく開き、売買は市のようで、恩典が内から降されて吏胥にまで及び、武階の廕襲は白丁にまで下る。あるいは選期が来ぬうちに官資を飛び越え、あるいは外任の雑流が急に京職に遷る。ついには下男や市井の童子までも縁を頼って名器をみだりに盗んでいる。踰越と濫用がここまで至っては、識ある者は寒心する。伏して見るに、英廟が復辟されたとき、景泰年間に僥倖で用いられた者はついにみな罷斥された。陛下が天順年間に臨まれたとき、功を偽った者は一切革除された。どうか聖断をもってことごとく斥け汰めて国体を存されたい、と。
  • 御史の宝應の張稷らもまた言った。近ごろ末流や賤しい技の者がみだりに公卿に交じり、屠狗や絹売りが濫りに清要の職に居る。文職には一丁字も識らぬ者があり、武階にも一矢を挟んだことのない者がある。白徒がにわかに貴くなり、一年おきに頻繁に遷り、あるいは父子が同じ堂に並び坐り、あるいは兄弟が各署に分かれて居る。はなはだしくは軍匠が逃亡し姓を変えて身を立て、官吏が贓罪を犯しながら罪を隠して寵を求める。一日に数十人が官を得、一署に数百人が俸を寄せている。古来、このような政令があったであろうか、と。
  • 帝は疏を得て意がかなり動き、三日して李孜省・淩中ら四人の秩を貶し、黄謙・錢通ら九人の官を奪ったので、人心は快とした。
  • 翌年正月、大監の尚銘が罷斥されたが、その一党の李榮・蕭敬らはなお用事していた。王瑞らが重ねて弾劾したが従われなかった。
  • 王瑞は諫官の職に十余年あり、湖広右参議に遷り、病を謝して帰り、卒した。