宦官の政治関与を諫める
- 王徽は字を尚文といい、應天の人。天順四年(1460年)の進士で、南京刑科給事中に除せられた。
- 憲宗が即位して数か月、同官の王淵・朱寛・李翔・李鈞とともに疏して四事を陳べた。末尾に言った。古来、宦官に賢良な者は少なく奸邪な者が多い。大権を授けて事を敗らせてから刑を加えるのは、始めに愛して終わりに殺すことであり、保全のしかたではない。どうか高皇帝の旧制に法り、政に関与させず兵を掌らせず、産を置き業を立てさせず、家人・義子はすべて原籍に編して民とし、官吏がこれと交わることを厳禁し、ただ賞賜を厚くして豊足を得させ他に望みを抱かせぬようにされたい。これが国家の福であり、また宦官の福でもある、と。
- その秋、帝は萬妃の讒言を容れて呉后を廃し、中官の牛玉が擅に中宮を替えた罪を問うて南京に謫した。王徽はまた王淵らとともに弾劾して言った。
- 陛下の中宮冊立は何と重い事か。それを賊臣の牛玉が大いに奸欺をほしいままにした。中宮が退けられ、人情はみな牛玉は必ず万死に値すると言ったのに、わずかに陪京に斥けられて首領を全うしている。それでは陛下の左右に侍る者は何を憚ることがあろうか。
- 内閣の大臣は輔弼の身でありながら、立后の大事を漠然と見て意に留めなかった。牛玉が欺きをほしいままにした初め、婚礼がまだ成らぬうちに、礼官は権を畏れて阿附した。牛玉の事が発覚した後は、国法として許し難いのに、刑官は旧誼を思ってついに苟且に済ませた。しかも李賢らは成り行きを座視して一言も出さなかった。悪に党して君を欺くこと、これより甚だしいものはない。李賢らもあわせて罪し、大臣で不忠なる者の戒めとされたい。
- 臣らが先の疏で宦官の保全を請うたのは、まさに患いを未萌に防ごうとしたからである。しかるに処置の道は聞かれぬまま、牛玉の禍が果たして起こった。往くものは諫められぬが来たるものはなお追える。臣らは遠く引くまでもなく、近い事で徴とする。正統末には王振があった。まさかその後に曹吉祥があろうとは。天順初には曹吉祥があった。まさかその後に牛玉があろうとは。今また予防を考えねば、後に牛玉より甚だしい者が出ないと誰が言えようか。
- そもそも宦者は事なきときは恭順慎重に見えるが、ひとたび国政を聞けばたちまち奸欺をほしいままにする。ある人を用いようとすれば必ずまずそれを売って自分の恩とし、ある事を行おうとすれば必ずまずそれを漏らして自分の勢いを張る。趨り付く者が日に増え威権が日に盛んになって、そこで禍が起こる。これが国政に与らせてはならないゆえんである。
- 内官は帝の左右にあるので、大臣が廉恥を知らず多く交わりを結び、珍奇を贈り、へつらって媚びを取る。すると内官はその者を賢として朝夕に誉める。方正で阿らぬ者は不肖として朝夕に讒謗する。日々の浸潤で疑いを招かずにはいない。こうして誉められた者は顕達し、讒謗された者は斥けられる。恩は内侍から出て怨みは朝廷に帰する。これが交わりを結ばせてはならないゆえんである。
- 内官の弟や甥が職を授かって事に当たれば、勢いに倚って非を行い、奸を集め悪を養い、広く財利を営む。奸弊は多端で、身は内にあっても心は外にあり、内外が通じて乱の起こる源となる。これが子姪を外で職に就かせ家産を営ませてはならないゆえんである。
- 臣らは言路に身を置き、苟且に済ませることはしない。死んでも悔いない。ただ陛下の裁察を仰ぐ、と。
- 詔は「みだりに言って誉れを求めた」として罪を加えようとしたが、諸給事中と御史が章を交わして救解したので、あわせて州判官に謫された。王徽は貴州普安、王淵は茂州、朱寛は潼川、李翔は寧州、李鈞は綏徳を得た。奏はもと李鈞の筆であった。
- 侍郎の葉盛、編修の陳音が相次いで留任を請うたが容れられず、最後に御史の楊琅の言はとりわけ切実で、危うく罪を得るところであった。
- 王徽は普安に至って学校を興し士を教えたので、はじめて郷試に挙げられる者が出た。土官の隴暢および白千戸の賄賂を退け、治績は甚だ聞こえた。七年居って官を棄てて帰った。言者がたびたび推薦したが、ついに宦官に憎まれて再び登用されなかった。
- 王徽はかつて言った。今の仕える者は剛直方正を苛酷とし、怠慢を寛大とする。学ぶ者は正を持することを停滞とし、柔弱を融通とする。文を作るには典雅を浅薄とし、怪異を古健とする、と。治を論ずるときは張宣公の「事を弁ずる人を求めず、事を暁る人を求めよ」という語をよく誦した。当時、皆その切実に的中していることに服した。
- 𢎞治初年、吏部尚書の王恕の推薦で陝西左参議として起用されたが、一年余りで病を謝して還り、卒した。年八十三。子の王韋は文苑伝に見える。
王淵・朱寛・李翔・李鈞(王徽伝附)
- 王淵は浙江山陰の人。天順元年(1457年)の進士で、南京吏科給事中に除せられた。もとより剛直で、順天府治中で終わった。
- 朱寛は莆田の人、李翔は大足の人、ともに天順元年の進士。李鈞は永新の人、景泰二年(1451年)の進士。朱寛は南京礼科給事中、李翔は兵科、李鈞は工科であった。
- 謫された後、朱寛は表を進めて京に入る途中で卒し、李翔と李鈞はいずれも判官で終わった。