篇首の立伝者一覧
- 張寧
- 王徽(附・王淵ら)
- 毛𢎞
- 邱𢎞
- 李森
- 魏元(附・康永韶ら)
- 强珍
- 王瑞(附・張稷)
- 李俊
- 汪奎(附・従子の汪舜民、崔陞ら)
- 湯鼐(附・吉人、劉槩、董傑)
- 姜綰(附・余璿ら)
- 姜洪(附・歐陽旦、暢亨)
- 曹璘
- 彭程
- 龎泮(附・吕獻)
- 葉紳
- 胡獻(附・武衢ら)
- 張𢎞至
- 屈伸
- 王獻臣(附・吳一貫、余濓)
給事中としての言論
- 張寧は字を靖之といい、海鹽の人。景泰五年(1454年)の進士で、礼科給事中に任じられた。
- 景泰七年(1456年)夏、帝が唐瑜らの奏に従って南京の大小の諸臣を考課しようとしたとき、張寧は「京師こそ根本の地であり、そこだけを免ずるべきではない」と言った。
- また言った。京衛で俸を帯びる武職は一衛で二千余人に達し、通計して三万余員、年に銀四十八万・米三十六万を要し、他の折俸の物と合わせれば動もすれば百万に及ぶ。国の蓄えを損なうことこれより甚だしいものはない。しかもその中には老弱で騎射に不慣れな者が多い。使える者を選んで天下の都司・衛所の欠員に補い、残りはことごとく汰めるのがよい、と。議は阻まれて行われなかった。
- 帝が病を得、ちょうど星変に遭ったので、詔により罷めた。翌年の元会には、百官の朝参が朔望と同じ扱いとなった。張寧は「四方から来覲した者が天顔を一目も拝せなければ、疑わしい折であるだけに必ず訛言が飛び交って互いに驚くことになる。どうか旧典に努めて従い、人心を慰められたい」と言った。帝は病のため従えず、そのうちに奪門の変が起こった。
- 天順年間、曹吉祥と石亨が権を盗んだが、礼科に関わる事は張寧がそのつど削り抑えたので、英宗はこれによって張寧を知った。
- 朝鮮と隣部の摩琳衛が仇殺していたとき、詔により張寧が都指揮の武忠とともに和解に赴いた。張寧は言辞が慷慨として義に適い、武忠は驍健で、二張の弓を並べて引き、一発で雁を射落としたので、朝鮮の人は大いに驚服した。二人はついにその仇を解いて還った。中官の覃包が面会を求めたが行かなかった。
- まもなく都給事中に抜擢された。憲宗が初めて経筵に臨んだとき、日々『大学衍義』を進講するよう請うた。
- その年十月、皇太后の誕辰に礼部尚書の姚䕫が先例どおり斎を設け醮を建て、百官を集めて壇に赴き焼香させようとした。張寧は「益がなく、いたずらに大体を損なう。禁止されたい」と言い、帝は嘉して容れた。
- まもなく給事中の王徽が牛玉の件で大学士の李賢を弾劾して罪を得たとき、張寧は六科を率いて救解を論じたので、これによってしだいに内閣と衝突した。
- 王竑らが「張寧は僉都御史として軍職の貼黄を整理するに堪える」と推薦し、岳正とともに挙げられたが、「推挙には私が多い」との旨が下り、いずれも外任とされた。
- 張寧は汀州知府として出て、簡素と静穏を治の旨とし、一年で善政が挙がった。
- 張寧は才が高く志節を負い、章奏に巧みで名声は甚だ高く、英宗はかつて重用しようとしたが果たさなかった。長く諫官の職にあって大臣に好まれず、外に出て守となってからはますます鬱々として志を得ず、病により免ぜられて帰った。
- 家に居ること三十年、言者がたびたび推薦したが、ついに再び召されなかった。子はなく、二人の妾がいたが、張寧が没すると髪を切って死を誓い、楼に居って四十年下りなかった。詔により「双節」として旌表された。