明史卷一百七十八 列傳第六十六 秦紘

秦紘(字は世纓、単の人)は、景泰二年の進士。南京御史として内官を弾劾し、以後も宦官・宗室・勲臣と衝突し続けた剛直の士で、家財を調べられて破れた衣類しか出ず憲宗に嘆かせた清貧の逸話で知られる。宣府では小王子の侵入を撃退し、弘治年間には両広総督として鎮守中官・武将の弊を糺し、田州の乱を鎮めた。晩年、弘治十四年に三辺総制として起用され、固原を州に昇格させて重鎮に改造し、諸辺の城堡一万四千余所・垣塹六千四百余里を築いて西陲経略の第一人者と称された。八十で卒し、襄毅と諡された。

年表(7件)

出自と地方官時代

  • 秦紘は字を世纓といい、単の人。景泰二年(1451年)の進士で、南京御史に任じられた。
  • 内官の傅鎖兒の罪を弾劾して処断し、江南で翠毛や魚魫などを採る使者の派遣を諫めて止めさせたので、権貴に憎まれた。流言が聞こえるなか、考察に際して湖広の駅丞に謫された。
  • 天順初年、御史の練綱の推薦で雄県知県に遷った。奉御の杜堅が天鵝を捕えて横暴に振る舞ったので、秦紘は捕えてその従者を杖打ち、詔獄に下された。民五千人が朝廷に出て訴えたので、府谷知県に移された。
  • 憲宗が即位すると葭州知州に遷り、秦州に移った。母の喪で官を去ったが、州の人が留任を願ったので、服喪を終えて元の任に還った。
  • まもなく鞏昌知府に抜擢され、西安に移り、陝西右参政に遷った。岷州の番が乱れたとき、兵三千を率いてこれを破り、俸一級を進められた。

山西・宣府の巡撫と貧窮の逸話

  • 成化十三年(1477年)、右僉都御史に抜擢されて山西を巡撫し、鎮国将軍の奇澗らの罪を奏した。奇澗の父である慶城王鍾鎰が弁明の奏を上げ、あわせて秦紘を誣告した。帝は王の意に背きにくく、秦紘を逮えて法司に取り調べさせたが、いずれも証拠がなかった。
  • 内官の尚亨が秦紘の家財を調べ、得られたのが破れた衣類数点だけであったと奏したので、帝は嘆いて「秦紘の貧しさはここまでか」と言い、鈔一万貫を賜って表彰した。そこで奇澗ら三人の爵を奪い、王もまた禄の三分の一を削られ、秦紘は河南の巡撫に改められた。
  • まもなく宣府に転じた。小王子が数万騎で大同を侵し、長駆して順聖川に入り、宣府の境を掠めたが、秦紘は総兵官の周玉らとともに迎え撃ったので逃げ去った。まもなく興寧口を侵したが、続けざまに戦って退け、掠われた者を取り戻したので、璽書を賜って労われた。
  • 左僉都御史に進み、巡撫は元のとおり。まもなく召還されて都察院の事を処理し、戸部右侍郎に遷った。萬安が尹旻を追放したとき、秦紘は尹旻の一党と誣いられて広西右参政に降され、福建左布政使に進んだ。

両広総督

  • 𢎞治元年(1488年)、王恕の推薦で左副都御史に抜擢されて漕運を督した。翌年三月、右都御史に進み、両広の軍務を総督した。
  • 奏して言った。両広を総鎮する中官・武将は、おおむね私人を放って商賈を騒がせ、私第に高く構えて公事をほしいままに裁き、無辜を殺し、土官と通じて奸利を図っている。また天下の鎮守官が軍職の者を勝手に拘束し民の訴訟を受理するのは制度にない。厳しく禁絶されたい。総鎮府にはもともと賞功所があって毎年金銭数万を蓄えているが、支出に規準がない。都御史が監査するようにされたい。広・潮・南・韶には盗が多いので、社学を設け保甲を編んで盗の源を絶つべきである、と。帝はすべてその請いに従った。
  • 恩城知州の岑欽が田州知府の岑溥を攻めて追い払い、泗城知州の岑応と分けてその地を占拠した。秦紘は田州に入って岑欽を追い、岑溥を府に還らせ、官軍を留めて守らせたので、乱は鎮まった。さらに将を遣って黎の賊(陵水)と猺の賊(徳慶)を討ち平らげた。
  • 秦紘が着任したはじめ、総兵官の安遠侯栁景の貪暴を弾劾し、逮えて下獄させた。栁景もまた秦紘を訐ったが、調べても証拠がなかった。法司は栁景を死罪に当てたが、栁景は周太后の家と姻戚で後ろ盾があり、しつこく秦紘を訐り続けたので、詔により秦紘もあわせて逮えて廷鞫された。結局、罪はなかった。詔により栁景は死を免じられて爵を奪われ閑住となり、秦紘もまた罷免されて帰った。
  • 大臣の王恕らが秦紘の留任を請うたが容れられなかった。廷臣が重ねて章を連ねて「秦紘は大用すべきだ」と言い、数か月後に南京戸部尚書として起用された。𢎞治十一年(1498年)、病を理由に去った。

三辺総制と固原の経営

  • 𢎞治十四年(1501年)秋、敵が花馬池に大挙して侵入し、孔壩溝で官軍を破って平涼にまで至った。言者が「秦紘は威名があり、老いてはいるが用いられる」と言ったので、詔により戸部尚書兼右副都御史として起用され、三辺の軍務を総制した。
  • 秦紘は固原へ馳せ、敗戦の地を巡って自ら戦没した将士を祭り、その骨を埋葬した。戦死した指揮の朱鼎ら五人の記録を奏し、戦没した軍士の家を撫恤し、敗軍の将の楊琳ら四人の罪を弾劾して処断した。守将を入れ替え、壮士を練り、屯田を興し、号令を明らかにしたので、軍の士気は大いに振るった。
  • もともと敵が河套に入る前は、平涼・固原はともに内地で患いがなかった。保喇が住牧するようになってから、固原は兵の要衝となり、平・慶・臨・鞏の門戸となったが、城は狭く民は貧しく、兵力は手薄で商販も来なかった。秦紘は城郭を拡げて修め、商賈を招き、州に昇格させて自ら節制のためそこに留まった。
  • 奏して言った。固原の主兵・客兵は一万八千人にすぎず、城堡二十四に分散して守っているので、勢いが分かれて力が弱い。兵を増やすべきである。従来、臨・鞏・秦州の諸軍は毎年甘・涼へ赴いて防備に当たり、他方に警報があるとまた甘・涼から兵を調え、あるいは京軍を発して征討させている。そもそも京師は天下の本である。辺将が重兵を握っていながら、事あるごとに京軍を請うのは、幹を強くし枝を弱くする道ではない。今後は京兵を軽々しく発せず、臨・鞏・甘・涼の諸軍もそれぞれ本鎮に還し、兵に通じた宿将一、二人を選んでそれぞれの地を守らせるべきである。人は戍を家とし、軍は将を命とすれば、自ら進んで役に就き戦意も生ずる。これが得策である、と。
  • 秦紘は固原の北方に延々千里、閑田数十万頃がありながら、広野で辺に近いのに拠るべき城堡がないのを見て、花馬池から西の小塩池まで二百里の間、二十里ごとに堡一つを築き(堡の周囲四十八丈、軍五百人を役す)、固原以北の諸処にも屯堡を築いて人を募って屯種させ、一頃につき年に米五石を課せば五十万石を得られると建議した。
  • 計画は定まったが、寧夏巡撫の劉憲が妨げた。そこで秦紘は奏した。三辺の情勢を見るに、延綏・甘涼は地は広いが士馬は精強、寧夏は怯弱である。しかし河山が険阻である。ただ花馬池から固原までは軍が怯弱なうえ墩台がまばらで遠く、敵騎が長駆して深入りできる。だから墩堡を増築すべきで、韋州・豫望城などの諸処も同様である。今、固原以南の修築はまもなく終わるが、花馬池以北の二百里に十の堡を築くべきところ、劉憲が危言をもって衆を阻み、成りかけの功を廃そうとしている。劉憲に三辺を制せしめ、臣を寧夏の巡撫に改めていただければ、辺防を全うできて事にも便宜である、と。帝は詔を下して劉憲を責め、劉憲は罪を認めた。
  • 結局、秦紘の策のとおりに諸辺の城堡一万四千余所、垣・塹六千四百余里が修築され、固原は屹然たる重鎮となった。秦紘はさらに自ら考案して戦車を作り「全勝車」と名づけ、詔によりその様式が諸辺に頒布された。
  • 在任三年、四鎮は平穏で、前後に西陲を経略した者で秦紘に及ぶ者はなかった。
  • 𢎞治十七年(1504年)、太子少保を加えられ、召還されて部の事を視た。年老いたことを理由に章を連ねて力辞し、致仕を乞うたので、詔により敕を賜り伝馬に乗って帰り、月々の廩と歳ごとの隷は制のとおりとされた。翌年九月に卒した。年八十。少保を贈られ、襄毅と諡された。

人となりと死後

  • 秦紘は廉潔で世俗を絶し、妻子は菜羹と麦飯で常に飽くことがなかった。性は剛毅果断で害を除くに勇み、自らを顧みなかった。士大夫は面識の有無を問わず偉人と称した。
  • 両広で逮えられたとき、ちょうど後山の賊の討伐を議していたが、軍事を処理し終えてから従容として道に就き、儀衛や供回りを減らさなかった。嶺を越えてはじめて囚人の服に着替えて縛に就き、官校に言った。「両広は蛮夷が入り交じっており、総制の体面は重い。にわかに拘束されては国威を損なう。今は嶺を越えたのだから、まことに囚人である」と。その重厚で体を得ていることはこの通りであった。
  • 正徳五年(1510年)、劉瑾が政を乱したとき、秦紘の家の下男が秦紘の妻の弟の楊瑾を恨み、秦紘が遺した火礟を緝事の校尉に投じて、楊瑾が禁制の兵器を蓄えていると誣告した。劉瑾は怒って罪を秦紘に帰し、その家財を没収したが何も得られなかった。言官の張九敘・涂敬らも劉瑾の意に迎合して秦紘を弾劾したので、士類はこれを嗤った。

史論

  • 賛にいう。項忠と韓雍はともに文学によって仕官しながら、自ら太鼓を執って戦場で勲功を樹てた。機に応じて勝を決し、計画を立てて遠くを謀ったさまは、宿将にも及ばぬところがない。壮とすべきである。しかるに賞は労に酬いず、讒謗が相次ぎ、文武の吏がその後から追及した。功名の士がいわゆる発憤して太息するゆえんである。余子俊は辺の計に心を尽くして数世がその恩恵に頼り、朱英は廉潔と威望を粤の地に知られ、秦紘は経略の功を西陲に著した。文武兼ね備えた、まことに一代の能臣である。