明史卷一百七十七 列傳六十五 王翺・年富・王竑・李秉・姚䕫・王復・林聰・葉盛
篇首の立伝者一覧
- 底本の巻頭には、この巻に伝を立てた者が次のように並ぶ。王翺、年富、王竑、李秉、姚䕫、王復、林聰、葉盛。
王翺――出自と宣德年間の建言
- 王翺は字を九臯といい、鹽山の人。永樂十三年(1415年)、初めて行在で貢士の會試が行われた。帝はこのとき北京に都を定めようとしており、北の士を得て用いたいと思っていた。翺は二度の試験でいずれも上位であったので、帝は大いに喜び、特に召して食を賜り、庶吉士に改め、大理寺左寺正を授け、のち行人に左遷した。
- 宣德元年(1426年)、楊士奇の推薦で御史に抜擢された。当時、官吏に罪があれば軽重を問わず、磚を運べば職に復すことが許されていた。翺は、贓を犯した吏はただ罪を贖うことだけを許し、官には復せないようにして貪汚を懲らしめ退けるべきだと請い、帝は従った。
- 宣德五年(1430年)、四川を巡按した。松潘の蠻がひそかに起こったが、都督の陳懷は成都に駐まり、相隔たること八百餘里で制することができなかった。翺は便宜の五事を上った。懷を松潘に移すこと。松・茂の軍糧は農閑期に力を合わせて運び、官軍に護らせ、百姓だけに負担をかけて掠奪に遭わせぬこと。給与を与えられていない吏が民の蝕みとなっているので自首させ隠させぬこと。州縣と土司にあまねく社學を設けること。會川の銀場では毎年八千餘石の米を運んで軍に給しており、往復の労費が大きいので、罪ある者に粟を納めて自ら贖わせること。詔して担当官に糧の運搬の件を詳しく議させ、蝕みとなる吏を北京に移すこととし、そのほかはことごとく許して行わせた。
- 英宗が即位すると、廷議で文武の大臣を出して鎮守させることとなり、翺は右僉都御史に抜擢され、都督の武興とともに江西に鎮した。貪汚を懲らし奸悪を抑え、吏も民も畏れ慕った。正統二年(1437年)、院に召し還された。
- 正統四年(1439年)、處州の賊が廣信を流れ掠めたので、翺に捕らえに行かせ、ことごとく虜にして還った。
王翺――松潘の事件と遼東経営
- この年の冬、松潘都指揮の趙諒が國師のシャンバ(善巴)を誘って捕らえ、その財を奪い、同僚の趙得とともに叛いたと誣告した。その弟の小シャンバは怒って衆を集めて掠奪した。翺と都督の李安に軍二萬でこれを征させようとしたが、巡按御史がその冤を明らかにしたので、詔して機を見て進退するようにと言われた。
- 翺は到着するとシャンバを獄から出し、人を遣わしてその弟を招き、残党を撫定し、そのうえで諒を弾劾して誅し、得を戍に送り、シャンバを國師に復した。松潘はそこで平らいだ。
- 正統六年(1441年)、陳鎰に代わって陝西に鎮した。軍民で糧を借りて償えない者を調べて免じた。
- 正統七年(1442年)冬、遼東の軍務を提督した。翺は軍令が久しく弛み、寇が来ても將士が力戦しないので、諸將が庭で謁したとき軍規を失した罪をもって責め、左右に引き出して斬れと命じた。みな恐れおののいて叩頭し、死を尽くして償いたいと願った。
- 翺はそこで自ら辺を巡り、山海關から開原に至るまで城垣を修め、溝と塹を浚え、五里ごとに堡を、十里ごとに屯を置き、烽燧が互いにつながるようにした。將士を練り、鰥寡に家を与えたので、軍民は大いに喜んだ。
- また辺塞は孤立して遠く、軍餉が乏しかったので、土地の慣習に沿って法を立て、罪ある者に贖いを納めさせた。十餘年の間に穀と牛羊を数十萬得て、辺の用は豊かになった。
- 正統八年(1443年)、任期九年が満ちて右副都御史に進んだ。
- 指揮の孫璟が戍卒を鞭打って殺したところ、その妻と娘が泣いて同じく死んだ。別の卒が璟は一家三人を殺したと訴えた。翺は「卒は法によって死に、妻は夫のために死に、娘は父のために死んだ。殺したのではない」と言い、璟にその家の葬りの費用を償わせた。璟は感激し、のち遼東の參將として敵を三百里追い、李秉に仕えて名將となった。
- 正統十二年(1447年)、總兵の曹義らとともに塞を出て烏梁海(ウリャンハイ)を撃ち、捕斬百餘、家畜四千六百を獲、右都御史に進んだ。
- 正統十四年(1449年)、諸將が廣平山で敵を破り、左に進んだ。トクトブハ(托克托布哈)が大挙して廣寧を犯した。翺はちょうど閲兵中で、寇が急に至って衆は潰えたが、翺は城に入って自ら守った。ある者が城は守れないと言うと、翺は剣を手にして「敢えて城を棄てると言う者は斬る」と言った。寇が退くと、俸を半年停められることになった。
王翺――両廣総督と吏部尚書
- 景泰三年(1452年)、召し還されて院の事を掌った。儲位が易えられると太子太保を加えられた。
- 潯州・梧州の猺が乱れ、總兵の董興と武毅が互いに責任を押しつけて事に当たらなかった。于謙は翁信・陳旺と交代させ、そのうえで大臣一人を特に遣わして軍務を督させることを請い、そこで翺に命じた。兩廣に總督があるのは翺に始まる。
- 翺が鎮に至ると將は畏れ服し、誠を推して撫し諭したので、猺の人々は教化に向かい、管内は無事であった。
- 翌年、召されて吏部尚書となった。初め、何文淵が王直を補佐して銓衡を掌ったとき私が多く、言官に攻められて去った。翺が代わり、ひとえに成憲に従った。天順と改元されて直が致仕し、翺は初めて部の事を専らにした。
- 石亨が翺を除こうとし、翺は退官を願い、すでに聴き入れられていたが、李賢が力めて争ったので留まった。賢が亨に追われたときも、翺の言によって留まった。両人は互いに気が合って甚だ親しかった。帝は人を用いるたびに必ず賢に諮り、賢は翺を推した。それゆえ翺はその志を行うことができた。
- 帝は翺を厚く目にかけ、しばしば便殿に召して対し、名を呼ばず「先生」と称した。翺は年が八十近く、忘れることが多かったので、部の郎に論議に随行させた。帝が理由を問うと、翺は頓首して「臣は老いました。承った聖諭を取り違えるのを恐れ、この郎に代わって記させております。その人となりは誠実謹直で信ずるに足ります」と言った。帝は喜んだ。
- 吏部主事の曹恂がすでに江西參議に遷っていたが、病んで還った。翺がこれを上申し、主事のまま帰郷させるよう命じられた。恂は怒り、翺が朝に入るのを待ち受けて胸ぐらをつかみ、顔を打ち、大声で罵った。事が聞こえて詔獄に下されたが、翺は恂が実際に病んでいたと具に述べたので、斥けて帰されるにとどまった。当時、その度量に服した。
- 天順五年(1461年)、太子少保を加えられた。成化元年(1465年)、太子太保に進んだ。雨や雪の日は朝参を免ぜられた。たびたび疏を上げて帰ることを願ったが、そのたびに慰留され、しばしば医者を遣わして病を診させた。成化三年(1467年)、病が重くなってようやく致仕を許されたが、都を出ぬうちに卒した。年八十四。太保を贈られ、諡は忠肅。
王翺――その人となり
- 翺は銓部にあって請託を謝絶し、公務のあとはつねに宿直の廬に泊まり、年中行事や朔望に先祖の祠に詣でるほかは私邸に帰らなかった。選任のたびに、召対に当たって侍郎が代わりに選んだときは、帰りが暮れであっても必ず役所に至って選んだところを検め、不当があるのを恐れた。推薦しても当人に知らせず、「吏部が恩讐を晴らす場所であってよいものか」と言った。
- 自らの暮らしは倹素で、景帝はその貧しさを知って鹽山に邸を作らせた。孫が廕によって太學に入ると、受験させず、「寒士の道を妨げるな」と言った。
- 婿の賈傑が畿内近くに官していた。翺の夫人がたびたび娘を迎えたので、傑は憤って「そなたの父上は銓衡を司っておられる。私の官を京師に移すなど手を返すようなものだ。なぜこう面倒を厭わず行き来させるのか」と言った。夫人はこれを聞いて折を見て翺に頼んだ。翺は怒って机を押して夫人を打ち、顔を傷つけた。傑はついに調されなかった。
- 遼東から朝に還ったとき、同僚であった中官が翺を重んじて明珠数顆を餞別に贈った。翺が固辞すると、その人は「これは先朝の賜り物です。公は贓と見なして私を退けられるのですか」と言った。やむを得ず受け取ってしまっておき、中官が死ぬとその甥を呼んで返した。
- 都御史であったころ、夫人が妾を娶らせた。半年を越えて翺に告げると、翺は怒って「そなたはなぜ我が家法を破るのか」と言い、その日のうちに金帛を添えて返した。妾はついに嫁がず、「大臣の妾が他人に嫁ぐことがありましょうか」と言った。翺が卒すると妾は駆けつけて喪に服し、その子が終身養った。
- 李賢はかつて人に語って、「臯陶の言う九徳のうち、王公は五つを備えている。治まっていて敬み、しなやかで毅く、簡にして廉、剛にして充実し、強くして義にかなうことである」と言った。
- ただし性はかなり執拗であった。かつて賢良方正・經明行修および山林隠逸の士を挙げるよう詔があり、来た者はおおむね部に下して試験したが、翺は落として百に一、二も取らなかった。
- 性として南の士を好まなかった。英宗がかつて「北の人は文雅では南の人に及ばぬが、質実率直で雄偉であるから、急なときには力になる」と言ったので、翺はこれによっていよいよ多く北の人を引いた。
- 晩年、中官の郭聰の依頼に従ったことで都御史の李秉に弾劾され、翺は自ら罪を認めた。おそらく多少の傷はあったのであろう。子孫は代々錦衣千戸を官した。
年富――出自と給事中としての建言
- 年富は字を大有といい、懷遠の人。本の姓は嚴であったが、訛って年となった。會試の副榜で德平の訓導を授けられた。年はようやく二十を越えたばかりであったが、厳粛重厚で老儒のようであった。
- 宣德三年(1428年)、考課が最上位で吏科給事中に抜擢された。違失を糾正するにあたっては大局を保つことに努めた。帝は六科の任が重いとして、科ごとに二人を選んでその事を掌らせた。そこで富は賈銓とともに刑科を掌った。都御史の顧佐らが誤って死罪に落とした者十七人があり、富がこれを弾劾したので、帝は佐らを詰責した。
- 英宗が即位すると上言した。永樂年間に降人を招き入れ官爵でつなぎとめたが、国庫を空しく費やし、乱を養い危うきを招いているので、故土に帰すべきである。府軍前衞の幼軍はもと民間の子弟を選んで東宮に随侍させたものだが、いま死亡や障害の補充が民を騒がせているので、二十五所のうち一所から補い調え、さらに民を煩わせぬようにしたい。軍民の家で税と徭役を免れようと僧道を冒す者が数萬に及ぶので、ことごとく帰し、まだ度牒を受けていない者は業に復させたい。議の多くが実施された。
- 陝西左參政に遷り、まもなく糧の貯えを総理するよう命じられた。
年富――陝西の財政と軍餉
- 陝西では毎年、綾・絹・□毼(底本欠字)九百餘疋を織っていたが、永樂年間に駝毼五十疋を加えて織らせていた。富はこれを止めるよう請うた。
- 官吏・諸生・衞卒の禄や廩米が、みな辺の軍餉のために削られていたので、富はもとに復すよう請うた。
- 諸辺の将校が肥えた田を占めて開墾し、三、四十頃に至る者もあった。富は一頃ごとに賦十二石を納めさせるよう奏した。都督の王禎が重すぎるとして疏を上げて争い、廷議で三分の二を減らし、そのまま定額となった。
- また歳出を計算して軍餉を算段し、こう言った。臣の管内は毎年、二税百八十九萬石、屯糧七十餘萬石を収める。そのうち水旱・流亡・滞納の免除でおおむね三分の一が減る。ところが歳出は百八十餘萬に至り、入るは少なく出るは多い。いま鎮守の諸臣は国の計を量らず競って兵を増やすよう請うが、餉をどこから給せよう。冗卒を減らし、駑馬を淘汰し、侵蝕の弊を塞ぐことを請う。帝はその奏を可とした。
- 三邊の士馬への供給は膨大で、軍民は遠くへ運ぶのに疲れ、豪猾の徒はそれに乗じて利を貪っていた。富は遠近を量って徴収を定め、出入りを慎み鉤考して積年の弊を革めたので、民の苦しみは大いに和らいだ。
- 富は事に遭って果敢に行い、権勢も曲げることができず、名声は関中を震わせた。しかし法を執ることが厳しすぎたので、幸いを求める者の多くが喜ばず、これによってたびたび誣告と誹謗に遭った。陝西の文武の将吏は富を失うことを恐れ、みな上章してその労を述べたので、俸を停めたうえで留任となった。
- 九年の任期が満ちて河南右布政使に遷った。また富を苛酷だと言う者があり、帝は推挙した者を調べて連坐させよと命じたが、富を挙げたのが少師の楊溥だと分かって、そこで解けた。
- 富が河南に至ったとき、飢饉で流民二十餘萬が公然と掠奪していた。巡撫の于謙が富に鎮撫を委ね、みな鎮まった。
- 土木の敗ののち、辺境の道が塞がったが、部が富に転運を檄したとき、期日に遅れることがなかった。左に進んだ。
年富――大同の巡撫として権勢と争う
- 景泰二年(1451年)春、右副都御史として大同を巡撫し、軍務を提督した。当時、喪敗を経て法は弛み弊はとりわけ甚だしかった。富はひとえに撫循に努め、奏して秋の賦を免じ、諸州縣の税課局を罷め、太原の民が大同へ糧を運ぶことを停めた。
- 武清侯の石亨、武安侯の鄭宏、武進伯の朱英が、家人に官庫の銀と帛を受け取らせて米を買い辺に納めさせていたが、多くを着服していた。富が真っ先に取り調べを請い、詔して亨らを宥し、その家人の罪を問うこととなった。亨の遣わした卒が関を越えて大同に至ったので、富はまた亨の専擅を弾劾し、亨は罪を認めた。
- また襄垣王府の菜戸を削り、その厨役で教授の職を署していた者を杖打った。さらに分守中官の韋力轉、參將の石彪および山西參政の林厚の罪を弾劾した。
- このころ富の威名は天下に重かったが、諸豪家はいよいよ横目に見て、ともに富の罪を拾い上げようとした。于謙がちょうど政に当たっており、力めてこれを支えた。帝もまた富をよく知っていたので、その志を行うことができた。
- 林厚が力めて富を詆ったとき、帝は「厚は富を怨んで誣告しているのだ。朕はまさに富に辺の事を託そうとしている。どうして軽々しく人の言を聴いて辱めを加えようか」と言い、厚の官を削った。
- 景泰六年(1455年)、母の喪に遭ったが起復された。
- 景泰七年(1456年)、上言して、諸辺の鎮守・監鎗の内官が以前より増え、楊和や天城のように一城に二人という所もあって民を騒がすこと甚だしいので、減らし淘汰するよう請うたが、事は阻まれて行われなかった。
- また言った。高皇帝の定めた制では、軍官の私罪で贖いを取るのは笞のみであり、杖であれば降し、徒・流を授かれば充軍とする。律は甚だ明らかである。近ごろは贓を犯した者でも軽ければみな復職し、重くてもただ功を立てさせるだけで、刑は懲らしめるに足りず、いよいよ憚るところがない。これはみな法官の過ちである。廷議に下したが、流・徒の贖いは従前どおりとし、ただ本衞での差役・調練に当たらせて軍を領させないこととした。
- 英國公の張懋および鄭宏がそれぞれ辺境に田荘を置き、毎年、軍を使役して耕作させていた。富がこれを弾劾し、軍を伍に戻した。
年富――天順・成化年間の戸部尚書
- 天順元年(1457年)、巡撫官が廃され、富もまた罷めて帰った。ほどなく石彪が先の恨みから富を弾劾し、逮えて詔獄に下した。帝が李賢に問うと、賢は富は弊を除くことができると称した。帝は「これは必ず彪が富に抑えられて私を遂げられなかったのだ」と言った。賢は「まことに聖諭のとおりです。早く雪ぐべきです」と言った。門達に公正に取り調べるよう諭したところ、果たして証拠がなく、そこで致仕とされた。
- 翌年、廷臣の推薦で南京兵部右侍郎に起用されたが、着任せぬうちに戸部に改められ、山東を巡撫した。道中で属邑の蝗害を聞き、馳せ疏して報告した。左副都御史に改められ、巡撫は従前どおりであった。官吏は富の威名を知っており、望んで畏れ服し、豪猾の徒は跡を潜めた。
- 天順四年(1460年)春、戸部尚書が欠け、李賢が富を挙げたが、左右が巧みにこれを阻んだ。帝は賢に「戸部は富でなければならぬ。人の多くが富を喜ばぬというのは、まさに富が賢いゆえんだ」と言い、特に召してこれに任じた。
- 富は余剰と不足を按配し、出納を慎み、みずから会計に当たったので、吏は欺けなかった。利害にかかわる事は僚属が敢えて引き受けないこともあったが、富は「ただ行え。私が責めを負う。諸君は署名しなくてよい」と言った。これによって部の事は大いに治まった。
- 父の喪に遭ったが、初めのときと同じく起復させられた。
- 憲宗が立つと、富は陝西でしばしば用兵があるのに餉を治める者が適任でないとして、左布政の孫毓を退け、右布政の湯璿、參政の婁良、西安知府の余子俊を用いるよう請うた。吏部尚書の王翺が、富が官を侵していると論じ、理に下すよう請うた。富は力めて弁じ、「賢を薦めるのは国のためで、私するところはありません」と言い、そのまま骸骨を乞うた。帝は慰留し、そのために毓を退けた。
- ほどなく疽を病んで卒し、恭定と諡された。富は廉潔・正直・剛強で始終変わらず、王翺と並んで名臣と称された。
- 初め、英宗がかつて李賢に「戸部で年富のような者は得がたい」と語ったことがある。賢は「もし他日、翺に継いで吏部を掌るなら、富でなければなりません」と答えた。ただし性として疑うことを好み、とりわけ請託を憎んだので、属吏のうち狡い者は、故意にその意に反することを言って試みた。事を行わせたいときは、あえて不可と言い、行わせたくないときは、あえて可と言った。富はいつもこれに欺かれた。
王竑――馬順を撃つ
- 王竑は字を公度といい、その先祖は江夏の人。祖父の俊卿が事に坐して河州に戍られ、そこで籍に入った。竑は正統四年(1439年)の進士に及第し、正統十一年(1446年)に戸科給事中を授けられた。豪邁で気節をたのみ、顔色を正して言うことを憚らなかった。
- 英宗が北へ連れ去られ、郕王が朝に臨んだとき、午門で群臣が王振の誤国の罪を弾劾した。弾劾文を読み終えてまだ起たぬうちに、王は使いを出して命を待たせた。衆はみな地に伏して泣き、振の族誅を請うた。錦衣指揮の馬順は振の一党であったが、厳しい声で言う者たちを叱って退けようとした。竑は憤り、腕を振るって起ち、順の髪をつかんで「そなたらは奸党であり罪は誅に当たる。今なお敢えてそんな口をきくか」と叫び、罵りながらその顔に噛みついた。衆がともに撃ち、順はその場で死んだ。朝班は大いに乱れ、王は恐れてあわてて起って内に入った。
- 竑は群臣を率いて王の後に従った。王が中官の金英を遣わして望みを問わせると、「内官の毛貴と王長随もまた振の一党です。法に処してください」と言った。王が二人を出すよう命じると、衆はまたこれを打ち殺し、血が階を汚した。
- このとき竑の名は天下を震わせ、王もまたこれによって深く竑を重んじ、諸言官を召して慰め諭すこと甚だ手厚かった。
- 王が帝位に即き、エセン(額森)が京師を犯したとき、竑は王通・楊善とともに京城を守禦するよう命じられ、右僉都御史に抜擢され、毛福壽・高禮の軍を督した。寇が退くと、詔して都指揮の夏忠らとともに居庸に鎮守した。竑は着くと士馬を選び、要害を修め、職を果たさぬ将帥を弾劾し、防備は一新した。
王竑――馬順の件をめぐる後日談
- 景泰元年(1450年)四月、浙江鎮守中官の李德が上言して、馬順らに罪があれば命を請うてから誅すべきなのに、諸臣は敢えて擅に殺した、内官の擁護がなければ危ういところであった、これはみな闕を犯した賊臣であるから用いるべきでないと言った。章が廷議に下されると、于謙らが奏した。「上皇が塵にまみれられた禍は賊の振に由り、順らはまことに振の腹心でした。陛下が監國されたとき、群臣がともに誅を請うたのに、順はなお敢えて呵叱しました。それゆえ在廷の文武および宿衞の軍士の忠憤が激発し、憚る暇もなく三人を打ち殺したのです。これはまさに春秋の乱賊を誅する大義です。もし乗輿が流離したまま奸党がなお残っていたなら、国の安危はどうなっていたか分かりません。臣らは問うに足りぬと考えます」。帝は「乱臣を誅したのは衆の志を安んずるためである。廷臣の忠義は朕もすでに知っている。卿らは德の言を気にするな」と言った。
- 八月、竑は病んで朝に還り、まもなく都督僉事の徐恭とともに漕運を督し、通州から徐州までの運河を治めるよう命じられた。
- 翌年、尚寶司が順の牙牌を調べたが見つからなかった。順の子が竑を責めるよう請い、帝は許した。諸諫官が、順は奸党として罪が重く、廷臣がともにこれを除いたのであるから、牙牌など問う暇はない、しかも竑一人の事ではなく、竑を責めれば忠臣が怯えると言い、そこで先の旨は取りやめとなった。
王竑――淮揚の巡撫と大飢饉の救済
- この年の冬、耿九疇が召し還され、竑に淮・揚・廬の三府と徐・和の二州を兼ねて巡撫するよう敕され、また兩淮の鹽課を兼理するよう命じられた。
- 景泰四年(1453年)正月、災傷が重なって現れ、春になっても甚だ寒かったので上言した。諸臣に敕して痛切に修省させ、刑を省き、賦を薄くし、無益な工事を罷め、功のない賞を厳しくし、財を散じて民心を収め、民を愛して邦本を植えられたい。陛下はいよいよ儒臣を親しく召して道を講じ徳を論じ、君子を進め小人を退けて天意を回されたい。あわせて自ら罪を引いて罷免を願った。帝はその言を容れ、そこで詔を下して修省し直言を求めた。
- これより先、鳳陽・淮安・徐州が大水に見舞われ、道に餓死者が相次いだ。竑は疏を上げて奏したが、返答を待たずに倉を開いて賑わした。
- ここに至って、山東・河南の飢民で食を求めて来る者が押し寄せ、蔵では賄いきれず、ただ徐州の廣運倉にだけ余りの貯えがあった。竑はこれをすべて出そうとしたが、管理の中官が承知しなかった。竑は出向いて「民は朝夕にも盜となろう。もし私に従わず、万一の変が起きれば、まずそなたを斬り、そのうえで自ら死を請うだけだ」と告げた。中官は竑の威名を憚り、やむを得ず従った。
- 竑はそこで自ら専擅の罪を弾劾し、あわせて廣運の貯えは三か月しか持たないので、死罪以下の者に被災地で粟を納めて自ら贖うことを許すよう請うた。帝はさらに侍郎の鄒幹に国庫の金を持たせて馳せ赴かせ、便宜に任せた。
- 竑は自ら巡行して賑給し、足りなければ淮河を上下する商船に大小に応じて米を出させ、生き延びた者は百八十五萬餘人に及んだ。富民に勧めて米二十五萬餘石を出させ、飢民五十五萬七千家に給し、牛と種を七萬四千餘に給し、業に復した者は五千五百家、他境から流れて来て安んじ落ち着いた者は一萬六百餘家であった。病む者には薬を与え、死んだ者には棺を備え、売られた子女は贖って返し、帰る者には道中の費用を与えた。人々は飢えを忘れ、頌える声が大いに起こった。
- 初め、帝は淮・鳳の飢えを聞いて甚だ憂えていたが、竑が廣運倉を開いて自ら弾劾した疏を得ると、喜んで「賢いことだ、都御史よ。我が民を生かしてくれた」と言った。尚書の金濂、大學士の陳循らもみな竑の功を称えた。
- この年十月、その地で左副都御史に進んだ。当時、濟寧もまた飢えており、帝は尚書の沈翼に国庫の金三萬兩を持たせて賑わしに行かせたが、翼は五千兩を配っただけで残りを京の庫に返した。竑は翼が使いを奉じて体をなさぬと弾劾し、あらためて米に換えて賑えに備えるよう請い、従われた。
王竑――修徳・図治の上言
- 翌年二月に上言した。近年、飢饉が重なって人民は重ねて困窮している。この冬春の変わり目には雪の深さが数尺、淮河から海に至るまで四十餘里が凍り、人畜の凍死は一萬餘、弱い者は妻子を売り、強い者は掠奪をほしいままにし、衣食の道は絶え、流離が道に満ちている。陛下は九重の奥に端座され、大臣は廊廟に安んじておられ、目にする手立てがない。もしその有様を目撃されたなら、涙を流さぬ者はないでありましょう。
- 陛下が位を嗣がれて以来、天を敬い民を愛されなかったわけではないのに、天変と民の窮乏がとりわけ甚だしいのは、臣がひそかに恐れるに、聖徳は修められてもまだ至らず、大倫は正されてもまだ篤からず、賢才は用いられてもまだ効を収めず、邪佞は退けられてもまだその類を尽くさず、仁愛は施されても実の恵みがあまねからず、財用は省かれても上供が節せられず、刑罰は寛くなっても冤獄が伸びず、工役は停められても匠の労が休まらず、法制は頒たれても実行に変改があり、税賦は免ぜられても担当官がなお引きとめている、そのためではないか。このうち一つでもあれば、いずれも和を犯し変を招くに足りる。
- 願わくは陛下がその徳を修めてその治を新たにされんことを。天命を欽み、祖宗に法り、倫理を正し、恩義を篤くし、逸楽を戒め、異端を絶つ。これで徳を修める誠が備わる。宗良を進め、邪佞を遠ざけ、賞罰を公にし、賦役を寛くし、財用を節し、聚斂を戒め、貢献を却け、工役を罷める。これで治を図る実が備わる。かくして災変が止まぬということはあり得ない。
- 帝は褒めて容れ、内外の臣工に等しく修省を加えるよう敕した。
- 景泰六年(1455年)、霍山の民である趙玉山が宋の後裔と自称し、妖術で衆を惑わして乱をなしたが、竑がこれを捕らえた。前後して貪汚の吏を弾劾して処断し、民を蝕む糧長を革めたので、民は大いに便宜とした。
王竑――除名と再起
- 英宗が復辟すると巡撫官が廃され、竑は浙江參政に改められた。数日して石亨と張軏が、竑が馬順を撃った事を追論し、除名して江夏に編管された。半年ののち、帝は宮中で竑の疏を得て、「倫理を正し恩義を篤くする」の語を見て感じ悟り、官を遣わして田里に送り帰らせ、担当官によく世話するよう敕した。
- 天順五年(1461年)、バオラ(保喇)が莊浪を侵し、都督の馮宗らが出て討った。李賢の推薦により、竑をもとの官で起用し、兵部侍郎の白圭とともに軍務を參贊させた。翌年正月、竑は宗とともに紅崖子川でバオラを撃ち退けた。圭らが還ったのちも竑はなお留まって鎮し、冬になってようやく召し還された。
- 翌年春、また漕運を督し淮・揚を撫するよう命じられた。淮の人々は竑がまた来ると聞いて、歓呼して迎え拝し、数百里にわたって絶えなかった。
王竑――兵部尚書と致仕
- 憲宗が即位すると、給事中の蕭斌、御史の吕洪らがともに竑および宣府巡撫の李秉を大用に堪えると推薦し、廷議に下された。尚書の王翺、大學士の李賢がその言に従うよう請うた。帝は「古の人君は夢や卜によって賢を求めた。いま輿論の与するところに従えぬことがあろうか」と言い、ただちに竑を召して兵部尚書とし、秉を左都御史とした。命が下ると朝野は互いに慶した。
- 当時、兩廣に兵を用いようとしており、竑は韓雍を總督に挙げた。雍は罪を得たばかりであったので衆は難色を示したが、竑は「天子はまさに瑕を棄てて録用しようとしておられる。雍に罪があって用いるべきでないなら、竑は罪なくして廃された者ではないのか」と言い、ついに雍を用いた。
- 竑は進剿の事宜を条上し、さらに、将帥が征討にあたって私人を連れて行き、みだりに首功を冒すことを奏請できぬようにするよう言った。また京營をもとの員数に復し、権勢の家や豪帥が擅に禁軍を使役することを禁ずるよう請うた。そこで竑と給事中・御史の六人に十二營の軍士を検閲するよう命じられた。竑は、兵を選ぶのは将を選ぶに及ばないとして、ともに奏して營の職八十餘人を罷め、才武の者を慎重に選んで補った。
- 兵部で貼黄を清理する官が欠け、竑は諸大臣とともに修撰の岳正、都給事中の張寧を挙げたが、李賢に阻まれ、ついに二人は外に出され、あわせて會舉の例も廃された。竑は憤って「私はなおここに居られようか」と言い、そのまま病と称して退くことを求めた。帝はちょうど竑を用いようとしており、優詔をもって慰留し、日ごとに医者を遣わして診させたが、竑の請いはいよいよ切であった。九月、致仕を命じられて去った。
- 竑が尚書であったのは一年、うち病と称して謝したのが四か月であった。人々はその用を全うできなかったことを惜しんだ。去るにあたって中外からの推薦の章は百十通も上ったが、いずれも取り上げられなかった。
- 初め、竑はその居室を「戇庵」と号したが、帰ってからは「休庵」と改め、門を閉じて客を謝し、郷里の人もめったに会えなかった。当時、李秉もまた罷めて帰り、日々郷里を出入りして旧知と談笑し遊び楽しんでいた。竑はこれを聞いて「大臣たる者、どうして重みを養い自らを愛さずにおられよう」と言った。秉はこれを聞いて笑い、「大臣というものが、どうして郷里で人と違うことをして矯激ぶるのを賢しとしようか」と言った。当時、両者ともに称された。
- 竑は家に居ること二十年、弘治元年(1488年)十二月に卒した。年七十五。正德年間に太子少保を贈られ、諡は莊毅。淮の人々は祠を立ててこれを祀った。
李秉――出自と宣府での経営
- 李秉は字を執中といい、曹縣の人。幼くして父を失い、力めて学び、正統元年(1436年)の進士に及第して延平推官を授けられた。
- 沙縣の豪族が良家の士を盗と誣告してその妻を犯した。秉が豪族を捕らえて処断すると、豪族は秉を誣告し、秉は獄に下された。副使の侯軏がこれを正し、豪族を法どおり論じたので、これによって名が知られた。
- 召されて都察院に入り刑を治め、御史を授けられようとしたとき、都御史の王文が本院の經歴に推薦し、まもなく戸部主事に改められた。
- 宣府の屯田が豪族に占められていたので、秉が視察に赴いて田を民に返し、あわせて課徴を止めるよう請うたので、辺の人々は助かった。
- 兩淮の鹽課の弊が発覚して数百人が逮捕された。秉が調べに行き、偽の印を探り出したので、逮捕された者は無実が明らかとなった。景帝が立つと郎中に進んだ。
- 景泰二年(1451年)、左侍郎の劉璉が宣府で餉を督したとき、その侵奪の状を暴き、ただちに右僉都御史に抜擢されて璉に代わり、軍務の參贊を兼ねた。
- 宣府の軍民はたびたび寇に遭って牛や農具をことごとく掠められていた。朝廷は官を遣わして牛一萬五千を買い屯卒に給し、一人あたり代金で穀の種を買わせた。ところが璉はすべてを京軍で守りに出た者に与え、一つも屯卒に及ばず、さらにその月餉を停めて屯糧を甚だ急に徴していた。秉は璉の政をことごとく覆して厚く恤み、軍卒は城の守りのほかはみな屯作に当たれるようにした。使者の往来および宦官の鎮守に対する供応や徴収は、すべて奏して廃し、官の銭で費用を賄った。
- まもなく辺備について六事を上げた。軍は妻のある者を家ありとして月餉一石、ない者はその四分の一を減らしていたが、父母兄弟があっても妻がなければ一概に家なしとするのは義に合わない、同じく増給すべきだと言い、従われた。
- 当時、宣府の億萬庫はかなり充実していた。秉はさらに商人を招いて鹽を中し糧料を納めさせ、武装を整え、耕牛を買って軍に与えたので、軍はいよいよ感じて喜んだ。
- 景泰三年(1452年)冬、巡撫の事を兼理するよう命じられ、ほどなくまた軍務を提督するよう命じられた。
李秉――宣府での糾弾と辺民の撫恤
- 秉は辺の計に心を尽くし、嫌われ怨まれることを顧みなかった。都指揮の楊文・楊鑑、都督の江福の貪汚放縦を弾劾して罪に問い、獨石を守る内官の弓勝が狩猟して民を騒がすことを論じ、召し戻すよう請うた。また總兵官の紀廣らの罪を弾劾したところ、廣は秉を暴いて自らを弁じ、帝は秉を召し還そうとしたが、言官がかわるがわる請うたので、御史の練綱と給事中の嚴誠を遣わして調べさせ、結局は秉を留めた。
- 当時、辺の民の多くが流れ移っていたので、秉は広く招き寄せ、業に復した者には奏して月々の廩を与えた。土木と鷂兒嶺のさらされた骸を埋め、諸塞にも同じように行うよう願った。軍の家族で寇に殺され掠められて寄る辺のない者は、官が養い、あるいは費用を与えて郷里へ帰した。諸々の弊政を正し、条奏したものは百十章に及び、多くが許されて行われた。
- 諜報で寇が辺近くに牧していると伝えられ、廷議で楊俊を遣わし宣府の兵と合して討たせようとした。秉は「塞外はもとより諸部の牧地であって、辺を犯したのではない。不意を襲って幸いに功を得るなど、臣の敢えて聞くところではない」と言い、そこで取りやめとなった。
- 諸部が掠めた男女を質にして米との交換を求めたとき、朝議では成人には一石、幼い者にはその半分を与えることとした。諸部は一律に一石を求め、鎮の将は認めなかった。秉は「それは人を軽んじ粟を重んずることだ」と言い、その言うとおりに与え、自ら専擅の罪を請うた。帝は事の体を弁えていると評した。
李秉――天順年間の起伏
- 天順の初め、巡撫官が廃され、江南の糧儲を督することに改められた。
- 初め、江南の蘇州・松江は賦額が不均衡であった。陳泰が巡撫となったとき、民田で五升の者は倍に徴し、官田で重い者には増耗を課さないようにしたので、賦は均しくなって額は欠けなかった。秉は着任してひたすらその法を守った。
- まもなく知府を推挙するのに例に違ったとして逮えられたが、帝は秉の過ちが小さいとして宥し、任に復した。滸墅關の税をすべて米で徴して備荒に充てるよう請うた。また内官の金保が淮安倉を監して収奪した罪を暴いたが、御史の李周らが左遷されたので秉が疏を上げて救ったところ、帝は怒って罪しようとした。折しも廷議で巡撫を復置することとなり、大臣が秉の才を推薦したので、そのまま大同の巡撫を命じられた。
- 都指揮の孫英が先に罪で職を貶され衞に戻されていたのに、總兵の李文が詔書をみだりに引いて復職させた。秉は着任するとただちにこれを斥けた。裨將の徐旺が騎卒を率いて調練していたが、秉は旺が任に堪えないとしてその官を解いた。
- まもなく天城守備の中官である陳例が久しく病んでいたので、秉は羅付に替えるよう請うた。帝は秉の専擅を責めて召して詔獄に下し、指揮の門達は先の知府推挙と御史救済、孫英らの斥けをあわせて秉の罪とした。法司は旨を迎えて民に落とした。
- 三年居って、閣臣の推薦でもとの官に起用され、南京都察院に臨んだ。憲宗が立つと右副都御史に進み、また宣府を撫した。数か月して召されて左都御史を拝した。
李秉――遼東・大同の整飭と吏部尚書
- 成化と改元されると大計を掌り、貪汚苛酷の者を退け罷めることは以前の倍に及んだ。
- 翌年秋、遼東から大同に至るまでの辺備を整飭するよう命じられた。着くとただちに鎮守中官の李良、總兵で武安侯の鄭宏の軍規違反の罪を弾劾し、都指揮の裴顯を獄から出し、指揮の崔勝・傅海らを挙げて鳳皇山で敵を撃たせた。勝報が届くと璽書で嘉され労われた。秉はそこで宣府・大同を巡り、将帥を替え、軍令を申し渡して還った。
- まもなく總督に任じられ、武清伯の趙とともに五道に分かれて塞を出た。大勝の報が届き、帝は羊と酒で労い、麒麟の服を賜り、太子少保を加えた。
- 成化三年(1467年)冬、吏部尚書の王翺が致仕し、代わりを廷推したが、帝は特に秉を抜擢してこれに任じた。
- 秉は鋭意、仕官の道を清めた。順番を待つ監生が八千餘人いたので、分けて考核し、庸劣な者数百人を退けるよう請うた。そこで怨みと謗りが紛々と起こった。
- 左侍郎の崔恭は在職が長く尚書になるはずであったのに秉が得たので、かなり不平であった。右侍郎の尹旻はかつて秉に学び、秉は初めその言を用いたが、のち疎んじた。侍讀の彭華は中貴に付き、たびたび私事を秉に頼んだが、秉は聴かなかった。みな秉を怨んだ。
- 御史の戴用が、両京の堂上官および地方の正副の官は正統年間の例のように廷臣の保挙を経るべきこと、また吏部の司属も各部と等しく昇進・調任し、久しく要地を独占して急に昇ることのないようにすべきことを請い、その言葉は吏部を突いた。吏部はこれに反対した。帝は両京の四品以上の官については吏部に欠員を挙げさせ、裁可を仰ぐこととしたが、御史の劉璧・吳遠・馮徽が争って吏部に戻すよう請うたので、帝は怒って言う者たちを詰責した。
- 折しも朝覲の考察があり、秉が斥け退けた者は多く、しかも大臣の同郷や旧知が多かったので、衆の怨みが集まった。大理卿の王槩もまた秉を除いてその位に代わろうとし、そこで華と謀って同郷の給事中である蕭彦莊をそそのかし、秉の十二の罪を弾劾させ、さらにひそかに年功のある給事中を結んで自分に付かせ権を握っていると言わせた。
- 帝は怒って廷議に下した。恭と旻はすぐさま「我ら二人は諫めたが聴かれなかった」と言い、刑部尚書の陸瑜らは二人の意に付会して奏した。帝は、秉が私に徇い法を変えて任用に背いたとして、秉の太子少保を落として致仕させた。連坐した鮑克寬・李冲は外任に調され、邱陵・張穆・陳民弼・孫遇・李齡・柳春はみな罷められた。
- 彦莊に秉が結んだ御史を指すよう命じたが答えられず、久しくして璧ら三人の名を挙げたので、ともに詔獄に下されて外に出された。陵らは実際に良吏で名があったのに讒言で退けられ、衆議は不平であった。陵はとりわけ服さず、続けて章を上げて彦莊を暴いた。廷訊で陵の言は筋が通っており、帝は彦莊の誣告を憎んで大寧の驛丞に謫した。
- 秉が弾劾されたとき、勢いは激しく、秉を逮捕しようとしていた。秉は人に「私に代わって彭先生に伝えてほしい。秉の罪はただ上の命ずるままだが、ただ獄に入れないでいただきたい。入れば秉は必ず出られず、国の体を傷つけることを恐れる」と言い、疏を具して罪を引き、ほとんど自ら弁じなかった。
- 当時、天下の挙子が會試のため都下に集まっていたが、憤って罵り、「李公は天下の正しい人であり、奸邪に誣いられている。もし李公を罪するなら、我らの試験を取りやめて贖いたい」と言った。帝が秉を軽く責めるにとどめると、そこでやんだ。
- 秉が去るとき、官属が餞したが、みなすすり泣き、涙を落とす者もあった。秉は慷慨として人々に揖し、車に乗って去った。秉が去って恭が尚書となった。
- 秉は誠心と直道で順境も逆境も節を変えず、王竑と並んで重い声望を担った。家に居ること二十年、中外の推薦の疏が十餘上ったが、ついに起たなかった。弘治二年(1489年)に卒し、太子太保を贈られ、のち襄敏と諡された。
- 子の聰・明・智、孫の邦直はみな郷試に及第した。聰は南宮知縣となったが彦莊の弾劾で罷めて帰り、明は建寧府同知、智は南陽府知府、邦直は寧波府同知となった。彦莊は謫されたのち大寧縣を署したが、収奪をして盗に殺された。
姚䕫――出自と景泰年間
- 姚䕫は字を大章といい、桐廬の人。孝子の伯華の孫である。正統七年(1442年)の進士で、郷試も會試もいずれも第一であった。翌年、吏科給事中を授けられた。
- 時政について八事を陳べ、また言った。預備倉はもと貧民を賑わすためのものだが、里甲は貧しい者が償えないことを慮って隠して報告せず、そのため富家から借りて倍にして返すことになる。収穫を終えたばかりで直ちに窮乏するので、貧民は凶年に飢え豊年にも飢えることになる。天下の担当官に、毎年二度、蔵を開き、必ず自ら調べて最も貧しい者から先に給するよう敕していただきたい。帝はただちに実行を命じた。
- 景帝が監國となったとき、諸大臣が即位を勧めることを議して決しかね、諸言官に問うた。䕫は「朝廷が大臣を任ずるのは、まさに社稷のために計るためである。何を紛々としているのか」と言い、議はそこで定まった。
- エセンが京城に迫ると、宣府・遼東の兵を急ぎ徴して入衞させるよう請うた。
- 景泰元年(1450年)、南京刑部右侍郎に超擢された。景泰四年(1453年)、その地で禮部に改められた。敕を奉じて雲南の官吏を考察し、朝に還って禮部に留任した。
- 景帝が病んだとき、尚書の胡濙は休暇中であったが、䕫は強いて起こし、群臣とともに疏して太子を復すよう請うたが許されなかった。翌日、䕫は百官を率いて闕に伏して請おうとしたが、石亨らはすでに上皇を奉じて復位させていた。䕫は南京禮部に出された。
- 英宗はかねて䕫を知っており、儲位を復す議のことを聞くと、駅で召し還して左侍郎に進めた。
姚䕫――礼部・吏部尚書として
- 天順二年(1458年)、吏部に改められた。ある知府が貪汚で失脚し、石亨に賄賂を贈って復職を求めたが、䕫が固く不可としたので取りやめとなった。
- 天順七年(1463年)、石瑁に代わって禮部尚書となった。
- 成化二年(1466年)、帝が尚書の李賓の言に従い、南畿および浙江・江西・福建の諸生に米を納めて荒を救わせ、監に入れるようにしたが、䕫は奏して廃した。
- 成化四年(1468年)、災異がたびたび現れたので疏して請うた。六宮に愛を均しくして嗣ぎを広めること、西山に新しく建てた塔院を廃すること、アジラ(阿濟喇)の徒を遠ざけ斥けること、經筵に勤めて臨むこと、庶政を裁決すること、君子を親しみ小人を遠ざけること、用度を節すること、名器を惜しむこと、衣食・言動をすべて祖宗の成憲に遵って天意を回すこと。さらに、今日は成化の初政を守ることができれば十分だと言った。帝は優しい旨で答え、そのほか請うた十事はみなただちに可とされた。
- 慈懿太后が崩じたとき、中旨で別に葬ることを議させたが、閣臣は不可とし、廷議に下された。䕫は「太后は先帝に配して二十餘年、合葬と昇祔の典礼は具に定まっております。ひとつでも慎まぬところがあれば、先帝の御心に背き母后の徳を損ない、他日、礼に拠って改めるべきだと議する者が出れば、陛下の孝徳はいかがなりましょう」と言った。三たび疏を上げ、また群臣を率いて文華門に伏して泣いて諫めた。帝は周太后に固く請い、ついに礼どおりにすることができた。
- のち孝宗が䕫および彭時の疏を見て、劉健に「先朝の大臣が忠厚に国のために尽くしたのは、このようであったのか」と言った。
- 彗星が現れたとき、言官が続けて䕫を弾劾し、䕫は去ることを求めたが許されなかった。
- 帝は番僧を信じ、法王・佛子に封じられた者があって、服も用具も分をこえて限度がなかった。奸人がこれを慕って競ってその徒となった。䕫が力めて諫め、勢いはやや弱まった。
- 成化五年(1469年)、崔恭に代わって吏部尚書となった。雨と雪が時を失ったとき、時弊二十事を陳べた。
- 成化七年(1471年)、太子少保を加えられた。彗星が現れると、また群臣とともに二十八事を陳べたが、大要は、請託を絶ち、採辦を禁じ、軍匠を恤み、力役を減らし、流民を撫し、無駄な費えを節することを急とした。帝は多くを採り入れた。
- 翌年九月、南畿と浙江が大水となり、䕫は群臣にともに民を安んじ患いを止める術を求めるよう請うた。災異に遭うたびに帝に賑恤を請い、憂いが顔に現れた。
- 翌年に卒し、少保を贈られ、諡は文敏。
- 䕫は才器が広大深遠で、内外に通じて隔てがなく、朝議で決しないことも䕫の一言でたちどころに決した。吏部にあっては人材に心を配り、親戚や旧知を避けなかった。初め、王翺が吏部にあってもっぱら南の人を抑え、北の人はこれを喜んだが、䕫に至ってはかなり南の人を優遇した。推薦した者はおおむね職に堪えた。
- 子の璧は進士から兵部郎中を歴任した。項忠が汪直を弾劾したとき、璧はその謀にあずかったので、直は忠を陥れる際に璧をも連坐させて獄に下し、廣西思明同知に謫した。璧は病と称して帰った。
- 䕫の従弟の龍は䕫と同じ年の進士で、刑部主事を除せられ、累進して福建左布政使となった。右布政使の劉讓は同年であったが折り合わなかった。讓は粗暴であり、龍もまた清廉の操に欠けた。成化の初め、朝覲のとき、王翺が二人ともに罷めた。
王復――出自と通政・兵部
- 王復は字を初陽といい、固安の人。正統七年(1442年)の進士で、刑科給事中を授けられた。声も容儀も堂々としており、敷奏に巧みで、通政參議に抜擢された。
- エセンが京師を犯し、大臣が出て上皇を迎えるよう求めた。衆は行くことを憚ったが、復は行くことを請い、そこで右通政に遷り、禮部侍郎を仮に称して中書舍人の趙榮とともに赴いた。敵は刃を抜いて挟んだが、復らは怯まなかった。還ってなお通政の事に臨み、再び遷って通政使となった。
- 天順年間、兵部左侍郎・右侍郎を歴任した。
- 成化元年(1465年)、延綏總兵官の房能が河套の部衆を追撃したと奏し、労を奨める旨があった。復は、七百里を行って戦うのは適当でなく、しかも僥倖から争いの端を開くことを恐れるとして、敕して戒め諭すよう請い、帝はこれをよしとした。尚書に進んだ。
- 錦衣千戸の陳珏はもと画工であった。その死後、甥の錫が百戸の襲職を請うたが、復は、襲職は先帝の命であっても軍功によるものではないから許すべきでないと言い、そこで取りやめとなった。
王復――三辺の防備を経略する
- マラガ(瑪拉噶)が辺を騒がせたので、復に陝西の辺備を視察するよう命じられた。延綏から甘肅に至るまで形勢を検分して上言した。
- 延綏について。東は黄河の岸に起こり、西は定邊營に至って寧夏の花馬池に接し、曲がりくねって二千餘里に及ぶ。しかし険しい隘路はみな内地にあり、境外にはかえって屏障がなく、ただ墩堡だけを頼りに守っている。軍が内に居て民が外に居るので、敵が境に入れば、官軍が動く前に民はすでに掠め尽くされる。また西南は慶陽まで五百餘里、烽火が接続しないので、寇が来ても民は知らない。その北方の墩堠もおおむね遠く隔たっており、辺を防ぐ長策ではない。府谷・響水など十九の堡を辺に近い要地へ移し、安邊營から慶陽へ、定邊營から環州へ、二十里ごとに墪臺を一つ築き、合わせて三十四とし、形勢に従って溝と牆を設けたい。そうすれば消息が互いに通じ、守禦しやすくなる。
- 寧夏の経略について。中路の靈州以南にはもともと亭燧がなく、東西二路の營堡は遠く隔たって連絡がつかず、そのため敵はいつも深く入り込む。延綏と同じく墪臺を建て、合わせて五十八とすることを請う。
- 甘肅の経略について。永昌・西寧・鎮番・莊浪はいずれも守るべき険がある。ただ涼州だけは四方が平坦で敵が最も入りやすく、しかも水と草の便がよいので、年を越えて居座る。遠くから援軍を調えても兵は疲れ鋭気は挫け、急場に間に合わない。甘州の五衞からそれぞれ一千戸所を分け、涼州中衞を置いて印信を与え、その五所の軍伍は五衞の余丁から選んで補い、耕しつつ練らせたい。そうすれば戦守に資があり、兵威は自ずと振るう。
- また言った。洪武年間に東勝衞を建て、その西路は寧夏に直通し、いずれも烽堠を連ねていた。永樂の初めから北の寇が遠く逃れたので、軍を延綏に移して河を棄てて守らなくなった。まことに兵が強く糧が足りれば、祖制に準じて黄河を拠って守るのが万全の計である。いま河套がまだ静まっていないのだから、急には復せない。しかし時に応じて増減すべきである。延綏の将校は他の鎮に比べて少なく、調遣に足りない。參將二人を増置して軍九千を統べさせ、要地に駐めて互いに援け合わせるのが今日の急務である。
- 奏が上がると、いずれも従われた。復が辺で建て置いたものは多く機宜に適っていた。
王復――工部尚書として
- 朝に還ると、兵を治めるのは復の得意とするところではないと言う者があり、特に白圭を代わらせ、復を工部に改めた。復は謹んで法度を守り、名声は兵部にいたとき以上であった。
- 当時、中官が皇城の西北の回廊を修めることを請うたので、復はその役を緩めるよう議し、給事中の高斐もまた災害が頻りなので一萬人を使って無益なことをすべきでないと言ったが、帝はいずれも許さなかった。
- 騰驤四衞の軍を領する中官が、胖襖・鞋・袴を給するよう請うた。復は固く不可として、「朝廷がこれを作ったのは、もと出征の士に給し、日を刻んで途に就くとき縫うのに手間取らせぬためである。京軍には毎年、冬衣の布と綿を給している。これは成憲である。どうしてこれを変えられよう」と言った。
- 大應法王のジャシバル(扎實巴勒)が死に、中官が寺を造り塔を建てることを請うた。復は「大慈法王のときはただ塔を建てただけで寺は造っていない。いまこの制を新たに設けるべきではない」と言い、そこで取りやめとなった。ただし塔を建てることは命じられ、なお軍四千人を出して役に充てたという。
- 成化十四年(1478年)、太子少保を加えられた。
- 復は古を好み学を嗜み、廉潔倹約を守り、人に対して腹に隔てを設けず、官に当たっては大局を弁えた。工部にあること十二年、災異に際して言官がその衰老を言い、退官を願ったが許されなかった。二か月居って、汪直が言官に諷して改めて復および鄒幹・薛遠を弾劾させ、そこで旨を伝えてともに致仕させた。帰って久しくして卒し、太子太保を贈られ、諡は莊簡。
林聰――諫官としての糾弾
- 林聰は字を季聰といい、寧德の人。正統四年(1439年)の進士で、吏科給事中を授けられた。景泰元年(1450年)、都給事中に進んだ。
- 当時は事が多く、聰は慷慨として事を論じ憚るところがなかった。中官の金英の家人が法を犯したとき、都御史の陳鎰と王文がこれを処断したが罪としなかった。聰は同列を率いて、鎰と文が勢いを畏れて奸を放任したと弾劾し、あわせて御史の宋瑮・謝琚にも及び、みな獄に下された。のち復職したが、聰はさらに□(底本欠字)と琚は風紀の任に堪えないと言い、二人はついに外に調された。
- 中官の單增が京營を督して寵を得ており、朝士でわずかでも逆らう者はそのたびに辱めを受けた。家奴は白昼に人を殺し、民の産を奪い、商税を侵していた。聰がその奸を暴いて詔獄に下したが、宥された。增はこれ以後、ほしいままに振る舞わなくなった。
- 景泰三年(1452年)春、疏して言った。臣の職は刑獄を糾察することにあります。妖僧の趙才興の遠縁百口は律では連坐に当たらないのに、抄えて京に送られました。叛人の王英の兄は事情を知らず、家口も律では逮捕に当たらないのに、ともに流刑地に配されました。最後には許されたとはいえ、初めに受けた害はすでに堪えがたいものです。湖廣巡撫の蔡錫は副使の邢端を弾劾したために暴かれ、獄に繋がれること一年に及んだのに、端は職にあること従前どおりです。侍郎の劉璉が餉を督して侵し隠したのは罪がないとは言えませんが、沈固・周忱の着服が萬を数えるのと比べてどちらが重いでしょう。璉は獄に下されて追徴されたのに、固と忱は問われませんでした。犯人の徐南とその子で中書舍人の頤はともに王振の一党として斬に当たるはずですが、南は死刑に論じられ頤は除名にとどまりました。いずれも刑罰の公平を失ったものです。帝はこれをよしとし、端は獄に下され、璉は釈され、南もまた死を減じて除名された。
- 東宮が改め建てられたとき、聰は異論があったので春坊司直郎に遷された。
- 景泰四年(1453年)春、學士の商輅が、聰は敢えて言う人物であるから閑職に置くべきでないと言い、そこでまた吏科都給事中となった。奪情は正しい典礼ではないとして、永くその令を廃するよう上言し、帝は容れた。
林聰――福建の銀場と八事の上言
- 初め、正統年間に福建の銀場の額が重く、民が堪えなかった。聰は変が生じることを恐れて軽くするよう請うたが、当時これを用いることができず、のち果たして大乱となった。ここに至ってまたその害を極言し、ついに減免を得た。
- 景泰五年(1454年)三月、災異により同僚とともに八事を条上した。五行の諸書を雑え引いて数千言に及んだ。大要は、玩好を絶ち嗜慾を慎むことを徳を崇める本とし、人事を修めるのは賢を進め奸を退けることにあるとした。武清侯の石亨、指揮の鄭倫は厚い禄を享けながら田地を多く奏請しており、百戸の唐興に至っては一千二百餘頃にも及ぶので、限度を設けるべきである。そのほか、齋醮を罷め、僧道を淘汰し、刑獄を慎み、私に軍士を使役することを禁じ、輪番の工匠を省くことなど、いずれも時弊に深く当たっていた。帝は多くを採り入れた。
- これより先、吏部尚書の何文淵が聰の言によって獄に下され致仕して去っていた。ここに至って吏部が副使の羅箎を按察使に、參政の李輅と僉事の陳永を布政使に除したので、聰は疏して争い、あわせて山西布政使の王瑛は老いているから罷めるべきだと言った。箎らはそこでもとの官に戻され、瑛は致仕した。
- 御史の白仲賢が在職年数の長さから廣東按察使に抜擢されたとき、聰は仲賢は猟官に走っており超擢すべきでないと言ったので、鎮江知府に遷された。兵部主事の吳誠が取り入って吏部に移ったのを、聰が弾劾したので工部に改められた。
- 諸司は聰の気風を憚り、聰の言うことは敢えて奉行しない者がなく、吏部はとりわけそうであった。内閣および諸御史もまた、聰が論議を好むのを快く思わなかった。
林聰――弾劾と復権
- その年の冬、聰の甥の陳和が教官となり、養いに便利な近い地を得たいと望んだので、聰は吏部に口をきいた。御史の黄溥らはそこで、聰が吏部を挟み制したと弾劾し、あわせて先に仲賢を弾劾したのは同郷の參政である方員を私して仲賢の官を奪って与えようとしたものであり、吳誠と怨みがあったので誠を弾劾したのであり、福建參政の許仕達が聰に頼んで昇進を求めたので聰は仕達を巡撫に堪えると挙げたのだ、と言い、あわせて尚書の王直が聰におもねっていると弾劾した。
- 章が廷訊に下され、専擅して法を作ったとして斬に論じられたが、高穀と胡濙が力めて救い、帝もまた自ら分かっていたので、聰は國子學正に貶されるにとどまった。
- 英宗が復辟すると左僉都御史に超拝され、出て山東の飢えを賑わし、飢民百四十五萬を生かした。還って右副都御史に進んだ。
- 江・淮の鹽の盗を捕らえ、便宜をもって首魁数人を捕らえ誅し、残りはことごとく解散させ、盗の賄賂を受けた指揮を籍記して奏した。
- 母の喪に遭って起復され、二たび辞したが許されなかった。
- 天順四年(1460年)、曹欽が反したとき、将士がみだりに殺し、乞食の首を斬って功と報じるまでになり、市の人は戸を出られなかった。聰は院の事を署していたので、急ぎ賊を捕らえた者は必ず生きたまま連れて来るよう命じ、濫殺は止んだ。
- 錦衣の官校は、欽が指揮の逯杲を殺したことを憎み、欽の姻戚や知人をことごとく捕らえた。千戸の龔遂榮および舅の賀三もその繋がれた中にあり、人はその冤を知りながら敢えて正す者がなかったが、聰が弁じて出した。そのほか冤を雪いだ者も甚だ多かった。
- 天順七年(1463年)冬、刑部の囚が自ら縊れたことで諸給事中が紀綱の廃弛を弾劾し、都御史の李賓とともに獄に下されたが、まもなく釈された。
林聰――成化年間から晩年まで
- 成化二年(1466年)、淮南・淮北が飢え、聰が巡視に出て、漕糧および江南の余糧を貸して賑わすよう奏した。民はこれを德とすること山東のときと同じであった。
- 翌年、戸部尚書の馬昻とともに京軍を清理し、右都御史に進んだ。
- 成化七年(1471年)、王越に代わって大同を巡撫した。一年餘りで病を得て致仕し、二年してもとの官で起用され南院を掌った。従来、院を掌る者の多くは御史が事を言うのを喜ばなかったが、聰だけはこれを奨め励ました。ある者が聰を咎めると、聰は「自分がすでに言わぬうえ、他人が言うのまで禁じてよいものか」と言った。
- 成化十三年(1477年)秋、召されて刑部尚書を拝し、まもなく太子少保を加えられた。聰は旧德をもって召し用いられ、大局を保ち公論を執り、厳しくはないが粛然として、時の望みはいよいよ高かった。
- 成化十五年(1479年)、中官の汪直、定西侯の蔣琬とともに遼東の失事の状を調べたとき、直は巡撫の陳鉞をかばい、聰は争うことができず、論ずる者はこれを惜しんだ。
- 成化十八年(1482年)、帰ることを願ったが許されず、在職のまま卒した。年六十八。少保を贈られ、諡は莊敏。
- 聰は諫官としては厳正で犯しがたかったが、実は温和で近づきやすく、際立った行いをしなかった。それゆえ不肖の者は畏れ、賢者は多く喜んで近づいた。景泰のとき士大夫が激昂して事を論じ、朝に直臣が多かったのは、おおむね聰と葉盛がその先駆けとなったのである。
葉盛――土木ののちの建言
- 葉盛は字を與中といい、崑山の人。正統十年(1445年)の進士で、兵科給事中を授けられた。
- 軍が土木で覆り、諸将の多くが逃げ帰ったとき、盛は同列を率いて、まず扈従して軍規を失した者の罪を正し、そのうえで将を選び兵を練って復讐を計るよう請うた。
- 郕王が即位して例により賞賜があったが、盛は君父が塵にまみれておられるとして辞し、許されなかった。
- エセンが都城に迫ると、内府の軍匠を廃して征戦と調練に備えるよう請い、また担当官に糧料を蓄えて戦士に給させ、散った卒を遣わして天津から武器を取らせて外の援けを張るよう請うた。三日の間に章を七、八たび上げ、多くが機宜に適っていた。
- 寇が退くと都給事中に進み、勧善懲悪の道は賞罰を明らかにすることにあるとして、敢闘した孫鏜、事に殉じた謝澤・韓青は賞すべきであり、そのほか守禦が厳しくなく難に赴いて力めなかった者はみな罰すべきだと言った。
- 大臣の陳循らが、居庸に鎮守する都御史の羅通を召し還し、あわせて宣府の都督である楊洪を留めて京營を掌らせることを議した。盛は言った。今日の事は辺関が急である。さきに獨石・馬營が棄てられなければ、どうして駕が土木で陥ちようか。紫荊・白羊が破られなければ、どうして寇が都城に迫ろうか。いま紫荊・倒馬の諸関は寇が退いてほぼ一か月になるのに、まだ守禦が置かれていない。宣府は大同の応援であり、居庸は京師に近い。守るには適任者でなければならない。洪らを留めるのであれば、必ず洪のような者を求めて代えたうえで、重い託にこたえ大功を集められる。帝はこれをよしとした。
- まもなく出て陳州の流民を安集するよう命じられた。景泰元年(1450年)に朝に還り、流民は五方から雑り来て事情が一様でなく、幸いに編戸となっても互いに争い仇殺することがしばしばあるので、専任の官を置いて綏撫すべきだと言った。また畿輔で旱と蝗が相次いでいるので、寛恤を加えるよう請うた。帝は多くを採り入れた。
- 京衞の武臣およびその子弟の多くが驕り怠けて兵を習わないので、盛は精壮の者を選び抜いて調練と守備に備えるよう請うた。京城の勲戚が設けた市廛が月々税を徴していたので、盛は国の用が足りないとしてその税を籍に取って軍餉に充てるよう請い、いずれも従われた。
- 翌年、災いを止め患いを防ぐ八事を上げた。帝が兵乱がやや収まったのでかなり宴遊にふけるようになったため、盛は午朝の故事を復すよう請い、ただちに可とされた。
- このとき帝は心を虚しくして諫めを容れ、六科が連署して建議するときは、多くは盛と林聰が筆頭であった。廷臣が事を議するとき、盛はつねに先に発言し、繰り返し論じ難じたので、議にあずかる大臣で不快に思う者は「彼は少保ででもあるのか」と言い、そこで「葉少保」と呼ばれた。しかし世論はみな盛の才を推した。
葉盛――宣府の四城を復す
- 右參政に抜擢されて宣府で餉を督し、まもなく李秉の推薦で都督僉事の孫安の軍務を協賛した。
- 初め、安はかつて獨石・馬營・龍門の衞と所の四城の守備を領していたが、英宗が北へ連れ去られると、安は四城が遠く塞外にあって孤立していると奏して棄て、内に移していた。ここに至って廷議で安に修復を命じた。
- 盛はともに草を開き、廬舎を葺き、武具を整え、流亡の者を招き、旅人のために煖鋪を置き、国庫の金で牛千頭を買って屯卒に与えることを請い、社學を立て、義冢を置き、病を療し傷を扶けた。二年の間に四城および赤城・鵰鶚の諸堡は次々にみな整った。安はこれによって副總兵に進んだ。
- 守備の中官である弓勝が安を害しようとし、安は病だから代えるべきだと奏した。帝が盛に問うと、盛は「安は勝に押さえられているために病んだのです。いま諸将で安に勝る者はありません」と言い、そこで安を留め、しかも医者を遣わして病を診させた。のちまた勝を弾劾し、ついに他鎮に調させた。
葉盛――両廣の巡撫
- 英宗が復位したとき、盛は父の喪に遭って駆けつけた。天順二年(1458年)、召されて右僉都御史となり兩廣を巡撫した。喪を終えることを願ったが許されなかった。
- 瀧水の猺の鳳の弟である吉が掠奪をほしいままにしたので、諸将を督して生け捕った。
- 当時、兩廣の盜が蜂のように起こり、至る所で城を破り将を殺したが、諸将は怯えて戦おうとせず、平民を殺して功を冒したので、民は相率いて賊に従った。盛は、蠻の出没は一定しないので、今後は城池を攻め掠める者だけを報告し、そのほかは類をまとめて奏するにとどめるよう請うたが、疏が兵部に至って却下され行われなかった。
- 盛は總兵官の顔彪とともに賊の砦七百餘か所を破った。彪はかなり濫りに殺したので、謗る者はそれを盛の咎とした。
- 天順六年(1462年)、吳禎に廣西を撫させ、盛はもっぱら廣東を撫することとなった。
- 憲宗が立つと事を議するために都に入った。給事中の張寧らが盛を内閣に入れるよう推薦しようとしたが、御史の吕洪の言によって取りやめとなり、韓雍が代わって廣東を撫した。
- 初め、編修の邱濬は盛と折り合わなかった。大學士の李賢が入閣したとき濬が言及していたので、ここに至って雍への敕を草するにあたり、「葉盛のように降った者を殺すな」と書いた。盛は弁明しなかった。
葉盛――宣府の巡撫と河套の議
- やや遷って左僉都御史となり、李秉に代わって宣府を巡撫した。中鹽の米価を量って減らし、商を勧めて辺を豊かにするよう請い、また官牛・官田の法を復して田四千餘頃を開墾し、その余りの貯えで戦馬千八百匹を買い、堡七百餘か所を修めたので、辺塞はいよいよ安んじた。
- 成化三年(1467年)秋、入って禮部右侍郎となり、給事中の毛𢎞とともに南京で事を調べ、還って吏部に改められた。出て真定・保定の飢えを賑わし、荘田を分けて民間の種馬を養わせること、涿州と天津に倉を置いて粟を蓄え荒に備えることを議して請い、いずれも時の計に切実であった。
- マンダル(滿達勒)の諸部が久しく河套に駐まっていた。兵部尚書の白圭は、十萬の衆で大挙して追い払い、河に沿って城を築いて東勝まで至らせ、民を移して耕し守らせることを議し、帝はその議を壮とした。
- 成化八年(1472年)春、盛に敕して總督の王越、巡撫の馬文升・余子俊・徐廷璋と合して詳しく議させた。
- 初め、盛は諫官のころ兵を論ずるのを好んで多く建言していたが、三邊を往来してからは、当今に良将がなく、辺備は久しく虚しく、転運は労多く費えが大きいので、河套を掃い東勝を復するのは軽々しく議せぬことを知った。そこで諸臣と合わせて疏を上げ、「守るのが長策です。もし必ず決戦するのであれば、やはり壁を堅くし野を清めて、敵が怠って帰るところを狙って撃ち、一たび大きな痛手を与えれば、再び来るのを遏められましょう。あるいは彼が入って掠めるのに乗じ、精卒を遣わして進んでその巣を衝き、彼に内を顧みさせて内外から挟み撃てば、功を挙げるに足ります。しかし必ず固く守ったうえでなければ戦は議せません」と言った。
- 帝はその言をよしとしたが、圭は河套の回復を主張した。師は出たがついに功なく、人々はこれによって盛の先見に服した。
- 成化八年(1472年)、左侍郎に転じた。成化十年(1474年)に卒した。年五十五。諡は文莊。
- 盛は身を清く修めて学を積み、名節を尊び嗜好は薄く、家に居るときの出入りはつねに徒歩であった。生涯、范仲淹を慕い、堂にも寝室にもその像を設けた。志は君と民にあって身のためには計らず、古の大臣の風があった。
史論
- 贊に言う。天順・成化の間、六部は最も人を得たと称される。王翺らは正直剛毅で、みないわゆる名徳老成の人である。翺および李秉・年富が封疆の任に当たったこと、王竑が奸党を撃ち飢民を生かしたこと、王復が辺備を計ったこと、姚䕫が秩宗を司ったこと、林聰と葉盛が言路にあったこと、その現れたところはみなおのずと際立っている。その名声と実績が盛んに著れ、朝野の重い望みを担ったのも、ゆえのあることである。