正德・嘉靖間の西北の名将
- 杭雄は字を世威といい、代々綏德衞の総旗であった。雄は廕を承け、たびたび城壁に先登して首功を積み、六たび遷って指揮使に至った。
- 正德七年(1512年)、署都指揮僉事に進み、四川で賊を討った。まもなく西寧の守備となり、尚書の楊一清の推薦で延綏遊撃將軍に抜擢された。都御史の彭澤に従って哈密を経略し、副將の安國とともに岢嵐で敵を破り、都督僉事に進んで參將に改められ、都督同知に抜擢されて邊兵を統べ西内で調練した。武宗が宣府・大同に行幸したとき、雄は扈従し、そのまま大同總兵官に任じられた。
- 嘉靖の初め、伝奉官を淘汰したとき、雄も降されるはずであったが、辺境を守っているという理由で署都督僉事とされ、鎮守は従前どおりとされた。
- 小王子の一萬餘騎が沙河堡に入ったのを、雄は戦って退けた。まもなく再び大挙して侵入したが防げず、罷免を求めたが許されず、延綏に移り、召されて後軍都督府の僉書となった。
- 嘉靖三年(1524年)秋、土魯番が甘肅を侵し、詔して尚書の金獻民に軍を視察させ、雄には平虜大將軍の印を帯びさせて總兵官とし、陝西・延綏・寧夏・甘肅の四鎮の軍務を提督させた。列侯が出征するときに初めて大將軍の印を帯びるのであって、都督で授かった者はなかったが、ここに至って特に雄に命じたのである。着いたときには寇はすでに破られて逃げていたが、雄もまた錦衣千戸に廕せられた。
- 凱旋ののち、再び寧夏に出鎮した。濟農が大挙して侵入したので、總督の王憲は雄らに檄してこれを破らせ、都督同知に進んだ。
- 寇八千騎が氷に乗じて寧夏を犯し、雄と副總兵の趙鎮が防いだが、前鋒が伏兵に陥り、雄らはみな敗れた。總督の王瓊が弾劾し、官を奪われて閒住となり、翌年卒した。
- 雄は敢闘の人であった。かつて数騎で辺境を巡回していたとき、敵が群がり集まったので、馬を下りて鞍を積んで塁とし、跪いて射た。敵が退いてから衣を脱ぐと腋に血が固まっており、そこで飛矢に当たっていたことを知った。
- 武宗が大同で雄の氈の幕舎がひどく破れているのを見て、「老杭よ、こんなにも貧しいのか」と言った。寇が至り、帝が自ら撃とうとしたとき、雄は馬に叩頭して諫め、「主人が犬を飼うのは盜に吠えさせるためです。吠えぬのなら犬など何の用がありましょう。どうか臣らに力を尽くさせてください」と言った。帝は笑ってやめた。
- 若いころ延綏巡撫の行臺で使われていたので、貴顕になってからも行臺に至って議事するたび、正席には座ろうとせず、「ここは当年、私が下働きをしていた所だ」と言った。
- 正德・嘉靖の間、西北の名將としては馬永に次いで雄が称される。
史論
- 贊に言う。世が平らかであれば将たる者の略は現れようがない。あるいは符を握って出鎮し、疆土を守って侮りを防ぎ、はっきりとした働きをあらわして功名を全うするならば、それもまた尊ぶに足りる。許貴・周賢・魯鑑・姜漢は家が代々の将で勲功と門閥を相承け、なかでも賢と漢は事に殉じた最たる者である。彭清と杭雄の清廉な節操は、そのなかでも最も優れたものであろうか。