寧夏の総兵
- 安國は字を良臣といい、綏德衞の人。初めは諸生で、春秋と諸子・史書に通じて郷里で名を知られた。のち世職を襲いで指揮僉事となった。
- 正德三年(1508年)、武會舉に第一で及第し、署指揮使に進んで陝西三邊に赴いて功を立てることとなった。劉瑾が賄賂を要求したが、國と同時に及第した六十人はみな資力がなかった。瑾はそこで彼らを行伍に編入し、警急があれば調発に応じさせ、勝手に帰ることを禁じた。六十人はみな甚だ困窮し、戍卒と同列となって暮らしが立たなかったが、邊臣は瑾を憚って誰も救おうとしなかった。
- 寘鐇が反して大赦が行われ、ようやく放還された。通政の叢蘭が登用を請うと、瑾は怒って給事中の張瓚らに諷して彼らはみな無能だと弾劾させ、その加官をすべて停めさせた。瑾が誅されて初めて、もとの官で寧夏西路を分守した。まもなく署都指揮僉事に進んで右參將となり、右副總兵に抜擢されて大同を協守し、延綏に移った。
- 正德十一年(1516年)冬、寇二萬騎が分かれて偏頭關などを掠めたので、國は遊撃の杭雄とともに馳せて岢嵐州でこれを破り、首級八十餘を斬り、馬千餘匹を獲て、寇はついに逃げた。
- 初め、寇が大挙して白羊口に入ったとき、帝は中官の張忠、都督の劉暉、侍郎の丁鳳を遣わし、京軍を統べて討たせたが、着いたときには十分に掠めて去った後であった。忠と暉は功のないのを恥じ、紀功御史の劉澄甫は國らの功を横取りして彼らのものとし、大々的に賞を行った。忠らはみな禄を増され世廕を与えられ、尚書の王瓊もまた少保を加えられ子を錦衣に廕せられた。
- 國はこのとき署都督僉事として寧夏總兵官であったが、実授されただけであった。不平に思ったが自ら並べ立てることはせず、疏を具して力めて辞退し、部下の卒で重傷を負った者の叙録を願った。瓊が改めて國の功を叙するよう請い、ようやく都督同知に進んだ。
- 当時は佞倖が朝政をほしいままにし、賄賂で将職を買う風がはなはだ盛んであったが、國ひとりは才と武によって大將となり、端正謹直で軍務に練達し、赴任先ではつねに職を尽くすことを思い、将才を推挙するときも必ず彼に帰した。鎮にあること四年で卒し、特に武敏と諡された。