寧夏で安化王の乱に殉ず
- 姜漢は榆林衞の人。弘治年間に世職を嗣いで本衞の指揮使となった。御史の胡希顔がその才と勇を推薦し、都指揮僉事に進んで延綏遊撃將軍となった。
- 弘治十八年(1505年)春、寇が寧夏の興武營を犯したので、漢は部下を率いて馳せ援け、中沙墩で遭遇して撃ち破った。敕を賜って奨め労われた。
- 武宗が即位すると、寇が大挙して宣府・大同を犯し、漢は副總兵の曹雄、參將の王㦸とともに道を分けて援け、功があった。まもなく雄に代わって副總兵として延綏を協守した。
- 正德三年(1508年)、涼州の守りに移った。翌年冬、署都督僉事に抜擢され、總兵官として寧夏に鎮した。漢は軍を御するのに厳正で、將士の心を得た。
- わずか数か月で、安化王の寘鐇が逆を謀り、酒宴を設けて漢および巡撫の安惟學らを招いた。酒たけなわのころ、その一味の何錦らが衆を率いて入り、その場で漢を捕らえた。漢は奮い立って怒罵し屈しなかったので、ついに殺された。子の奭は逃れて助かった。
- 賊が平らぐと朝廷に訴え、詔して祭葬を賜い、役所がその祠を立てて春秋に祭った。嘉靖のとき、さらに巡撫の張珩の請いにより「憫忠」の額を賜った。
姜奭(附伝)――甘肅の総兵
- 奭は本来なら職を嗣ぐところ、帝は漢が事に死んだとして特に一階を進めて都指揮僉事とした。
- 正德十一年(1516年)、回の賊である魏景陽が乱を起こし、華陰などの諸縣がことごとく害を被った。巡撫の蕭翀が奭に檄して討たせ、景陽を捕らえた。署都指揮同知に進み、右參將として肅州を守った。
- 嘉靖二年(1523年)、右副總兵に抜擢されて涼州を分守し、署都督僉事に進んで總兵官として甘肅に鎮した。回の賊が甘州を犯したので、奭は張欽堡で戦って敗走させた。
- まもなく西海の賊八千騎が涼州を犯した。奭は遊撃の周倫らを率いて苦水墩に襲撃し、大いに破って首級百餘を斬り、その長を殲滅し、さらわれた人口千二百と家畜二千を取り戻した。都指揮の張錦もまた戦死した。功を録して署都督同知に進んだ。
- 濟農の別部が莊浪を侵したので、奭は分水嶺で遭遇して再び勝ち、平嶺まで進んだ。敵の騎兵が大挙して集まると、奭は伏兵を置いて誘い、またその長一人を斬り、首功七十を獲て実授された。
- 嘉靖十六年(1537年)春、寇が大挙して甘州に入ったのを防げず、二階を貶されて戴罪となった。まもなく永昌で敵を破った功で署都督僉事に復したが、その冬、先の罪により罷免された。久しくして推薦により副總兵に抜擢されて大同を協守したが、總督の翁萬達に弾劾されて罷められ、卒した。
姜應熊(附伝)――寧夏・大同の総兵
- 子の應熊は指揮使を嗣ぎ、宣府西路參將に抜擢された。
- 嘉靖二十七年(1548年)春、アルタン(諳達)が大同を侵し、總兵官の周尚が曹家莊で交戦した。應熊は萬達に従い懷來から鬨の声を上げ砂塵を巻き上げて西へ進んだので、寇はその衆寡を測れずについに逃げた。累進して都督僉事となり、總兵官として寧夏に鎮した。
- 嘉靖三十二年(1553年)、套の寇数萬騎が賀蘭山に屯し、精騎を遣わして紅井を掠めた。應熊は將士を戒めて固く守らせて敵を引きつけ、ひそかに兵を出して敵の営を攻め、首級百四十を斬り、都督同知に進んだ。
- 二年を越えて、套の寇数萬が氷を踏んで西に渡り、寧夏の山の背から直に莊浪・涼州に至った。應熊らは不意を撃って首功百餘を獲、右都督に進んだ。御史の崔棟がその寇を放任したことを弾劾し、職を奪われて取り調べられ、為事官として塞上に赴いて功を立てることとなった。
- 嘉靖四十年(1561年)秋、寇六萬餘騎が居庸の岔道口を犯し、應熊は南溝で包囲され、五本の槍を受けて落馬した。參將の胡鎮が数人を殺してこれを奪い返した。その冬、また右都督となり、總兵官として大同に鎮し、塞外の人口を招き寄せた功で俸を一級増された。
- 嘉靖四十二年(1563年)、寇が大挙して畿輔を犯し、詔して應熊らを援けに入らせた。諸鎮の兵がことごとく集まったが、敵の勢いが盛んなのを見て撃とうとしなかった。給事中の李瑜は、應熊および宣大總督の江東、保定總兵官の祝福が、胡鎮が包囲されたのを座視して一兵も出さなかったと弾劾した。帝は怒って敕を下し厳しく責めた。折しも寇が逃げようとしたのを應熊が密雲で防ぎ、かなりの斬獲があった。寇が退くと、帝は江東に諸將の功を序列させ、應熊を筆頭とし、詔してその祖の職を二級増した。
- のち防秋の労を録して左都督に進んだが、總督の趙炳然が、寇を放任し互市して朔州を荒らしたと弾劾し、戍邊に処せられた。穆宗が即位して赦されて還った。
- 子の顯祚は職を襲ぎ、累進して署都督僉事・總兵官となり、山西・宣府に鎮した。子の弼もまた都督僉事に至り、援遼總兵官となった。姜氏が大將として邊功をあらわしたのは、あわせて五世に及ぶ。