明史卷一百七十四 列傳第六十二 彭清

哈密回復の前鋒

  • 彭清は字を源潔といい、榆林の人。初め綏德衞指揮使を襲ぎ、功によって都指揮僉事に抜擢された。
  • 弘治の初め、右參將として肅州を分守した。寇が侵入すると兵を率いて追い、馬・駝・武器および奪われた人畜を取り戻して還った。まもなく巡撫の王繼とともに哈密を回復して功があった。
  • 清は位は下級の武官であったが、謀を好み勇と略があり、名は中央にまで聞こえ、とりわけ尚書の馬文升に器量を認められた。かつて病と称して引退を願ったが、文升が朝廷に力説して慰留した。
  • 弘治八年(1495年)、甘肅に警急があり、文升の推薦で左副總兵に抜擢され、なお甘肅を守った。まもなく巡撫の許進が清を涼州に移すよう願い出たが、このとき哈密は再び土魯番に占拠されており、文升はひそかに回復を図って清に成功を託していたので、肅州は事が多く、しかも清の名は西域に知られているから交代させてはならないと言い、その議は取りやめとなった。
  • 文升は楊翥の献策を得ると、鋭意、哈密を衝いてイランを襲おうとし、罕東・赤斤および哈密の兵を発して清に統べさせ、前鋒として許進に従いひそかに向かわせた。半月行軍してその城下に至り、攻めて陥れたが、イランはすでに先に逃げていた。そこで哈密に残った種族を撫安し、全軍そろって還った。
  • この戦役では、文升が方略を授け、間道から行くつもりであったのに、進はやはり従来の道を通ったので、イランは逃げおおせ、斬獲はいくらもなかった。しかし番人はもとから中国を軽んじてその地まで踏み込めまいと言っていたので、これによって初めて畏れを知った。清の功が最も多く、やや遷って都指揮使となった。
  • 弘治十年(1497年)、總兵官の劉寧が罷免され、清が都督僉事に抜擢されて代わった。その冬、土魯番は哈密の忠順王シャンバ(善巴)を返し、また通貢を願い出て、西域は再び安定した。清はたびたび病と称して兵権を解かれることを願ったが許されず、弘治十五年(1502年)に卒した。
  • 清は士を御するに恩があり、久しく西の辺境に鎮して威名が甚だ高く、番夷はこれを憚った。性は清廉潔白で、鎮にある間に母と妻と妹の四つの喪に遭ったが、貧しくて帰葬できなかった。卒した日には將士も庶民も女子供までみな涙を流した。子に賻贈を受けてはならぬと遺言したので、その喪もまた帰ることができなかった。帝はこれを聞いて撫臣に命じ、国庫の銭を出して郷里へ送り帰らせ、祭葬を制のとおり賜った。