宣府から甘肅の鎮守へ
- 劉寧は字を世安といい、その先祖は山陽の人。世職を襲いで永寧衞指揮使となった。勇敢で戦いに巧みであったが、自分は閑職で活躍の場がないと思っていた。折しも延綏で用兵があったので、疏を上げて死力を尽くしたいと願い出、尚書の白圭がこれを許した。たびたびの功で都指揮使に遷り、宣府遊撃將軍となった。
周璽(附伝)――陽和・大同の武將
- 周璽は字を廷玉といい、遷安の人。職を嗣いで開平衞指揮使となった。気概があり兵書に習熟し、騎射に巧みであった。北征の功で署都指揮僉事に抜擢され、右參將として陽和を分守し、部下の兵三千を訓練して調発に応ずるよう敕された。
- 成化十六年(1480年)、王越に従って威寧海子を征し、累進して都指揮使となった。
- 当時、邊の寇は絶える年がなかった。成化十八年(1482年)、寇が数道に分かれて侵入し、璽は遊撃の董昇とともに黒石崖で戦い、寧は塔喇山で戦って、いずれも功があった。璽は署都督僉事に進んで大同副總兵に遷り、寧は都督僉事に進んで左參將に改められ陽和を分守した。
- 成化十九年(1483年)秋、イスマイン(伊斯瑪音)が大挙して大同に入った。總兵官の許寧は、璽を分けて懷仁を守らせ、寧と董昇を西山に陣させ、自ら中軍を率いて夏米莊でこれを撃ったが敗れた。寧と昇は幾重にも包囲されて危うく陥ちかけたが、急ぎ巨砲を放って撃ったところ敵に死者が多く出て、囲みは解けた。
- 璽は中軍が敗れたと聞いて急ぎ兵を返して救援に向かい、夜に敵と遭遇した。敵は勝ちに乗じて鋭気が甚だしかったが、璽は將士を励まして「今日は進むのみ、退くことはない」と言い、大呼して陣に突入した。敵がやや退き、久しくして白兵戦となり、腕に流れ矢を受けたが鏃を抜いていよいよ激しく戦い、子の鵬および麾下の壮士とともに数十人を撃ち殺した。折しも寧の兵が至り、中軍の潰走した兵もやや集まったので、敵は退き、許寧らも還った。
- ほどなく寇がまた侵入して掠めた。寧は兵三千を率いて聚落站の西で遭遇し、連戦して破り、また白登の栁林で破り、さらに小鵓鴿谷まで追って破った。大同西路參將の莊鑑もその帰路を邀撃し、牛心山で戦ったので、敵はついに逃げ去った。
- このとき諸將の多くが敗れ、許寧以下は処罰を受けたが、璽は功によって実授され、寧は都督同知に超遷し、莊鑑もその部下に損失がなかったので銀と幣を賜った。
莊鑑(附伝)――遼東出身の宣府鎮守
- 莊鑑は遼東の人。天順年間に定遼右衞指揮使を襲いだ。驍猛で胆力があり、賊に遇えば奮い立ってたびたび功があり、累進して都督僉事となり左府を掌った。
- 弘治十一年(1498年)、鎮朔將軍の印を帯びて宣府に鎮した。才があるとして大同總兵官の張俊と鎮を交代し、兵部侍郎の熊繡がその経営の功を奏して都督同知に進んだ。
周璽(続)――代州の分守と寧夏での死
- 璽はまもなく右副總兵として代州を分守し、偏頭関などの諸関の監督を兼ねた。寧は左副總兵に改められて大同を協守した。二人はともに功をあらわし、北邊で名將と称された。
- 璽は、偏頭は太原から遠いとして分守を鎮守に改めるよう請い、また鎮守は節制を受けるべきでないとして總兵の銜に変えることを願った。憲宗はいずれも意に従った。
- 弘治の初め、陝西に移鎮し、扶風などの諸縣で籍を附した回回を討ち平らげた。弘治三年(1490年)、征西將軍の印を帯びて寧夏に鎮したが、わずか一年で卒した。死に臨んで諸子を呼び、「私は印を帯びて一方を任され、分は十分である。ただ一度も大いに敵を破ったことがない。恨みを抱いて地に入る」と言い、続けて「賊を殺せ」と叫んで瞑目した。子の鵬は累進して錦衣衞指揮僉事となった。
甘肅の鎮守と哈密の功
- 璽の歿後三年、寧は平羌將軍の印を帯びて甘肅に鎮した。その冬、寇が涼州を犯し、寧は抹山墩で戦って五十餘を捕らえ斬り、暮れまでにらみ合って輜重を南へ運んだ。寇がまた襲って来たのでその長一人を捕らえた。翌日、參將の顔玉が救援に来、副將の陶禎の兵も至ったので、寇は逃げた。その幼弱な者を捕らえ、馬・駝・牛・羊二千を得て、右都督に進んだ。
- 翌年、巡撫の許進とともに哈密で土魯番を襲い破り、左都督に進んで俸百石を増され、病により京に還った。
- 弘治十三年(1500年)、大同に警急があり、寧を副總兵として平江伯の陳鋭に従わせて防がせた。鋭には将略がなく、寧と折り合わず、戦うなと止めたので、寇は思うままにして去った。半俸を停められ閒住となった。まもなく參將として朱暉の軍務の贊畫となったが、これも功がなかった。寧が自ら哈密の功を述べて伯への封を願うと、詔して全俸を戻した。
- 寧には胆力と知恵があった。大同副將であったとき、貢を納めに来た者が数萬人おり異心を抱いていた。寧は二十騎を率いてじかにその陣営に至った。衆は驚き怪しみ、ある部長は馬を押さえて弓を引いて寧の前に出たが、寧は馬を下りて諸部長と座り、鞭を挙げて指し示しながら天子の威徳を宣べた。一人が無礼な言葉を吐くと、寧はその面を打ち、腕を振るって立ち上がった。その長が叱って退けさせた。寧はまた座って語り、酒を呼んで歓を尽くしたので、みな感じ悟り、ついに約のとおりとなった。
- かつて古の番上の法にならい、五十八人を一隊とし、隊伍を重ねて陣を成し、五色の旗を立てた。また中軍にそれぞれ五本の大旗を立て、中軍の旗が挙がると五つの陣がそれぞれその色に応じ、循環して切れ目がなかった。戦うたびにこれを用いて勝ちを取った。
- 晩年に再び大同へ赴いたときには、すでに老いており、主帥もまた怯懦であったので功を成せなかった。しかし孝宗の朝の良将としては寧が称される。弘治十七年(1504年)に卒し、廣昌伯を贈られた。