明史卷一百七十四 列傳第六十二 王璽

甘肅の鎮守と哈密の回復

  • 王璽は太原左衞の指揮同知であった。成化の初め、署都指揮僉事に抜擢され、黄河の七墅を守禦した。巡撫の李侃が朝廷に推薦した。
  • アル(阿嚕)が延綏を侵したので、遊撃將軍として救援に赴き、孤山堡に戦って破った。寇が再び入ると漫天嶺・劉宗塢および滿達勒の水磨川で戦い、いずれも功があった。都指揮同知に進み、副總兵として寧夏に鎮した。
  • 成化九年(1473年)、將才として周玉とともに推薦された。成化十二年(1476年)、署都督僉事に抜擢され、總兵官として甘肅に鎮した。
  • 黄河以西、莊浪から肅州の南山に至る一帯は、その外側が番人のアンギ(昻吉)ら二十九族の住むところであった。洪武年間に石を立てて境を画し、樵採・放牧は境を越えぬよう約していたが、年久しく廃れ、諸番はしばしば境内に入り込み、中国の無頼の徒もひそかに通じて邊患となっていた。璽は境界を引き直すことを請い、諸番を召し集めて、界石が廃れたままでは官軍の侵害を招く恐れがあるので今これを立て直し、界外での放牧と互市を認め、交易のときは關に入ることとする、と諭した。こうすれば番人は必ず命に従い、後日の憂いをひそかに消せる、と言った。帝はよしとして従った。
  • 成化十七年(1481年)、署都督同知に進んだ。当時、璽は都督僉事で總兵官、魯鑑は署都督同知で參將であったため、璽は統制しにくいことを恐れて兵権を解いてほしいと願い出た。それゆえこの命があった。
  • 初め、哈密は土魯番に侵され、その將イラン(伊蘭)に守らせていた。都督のハシャン(哈商)は苦峪口に寄居していたが、赤斤・罕東に近く、たびたび攻め合った。ハシャンは勢い窮して救援と撫恤を求め、朝議は璽に敕して苦峪に城を築かせ、別に哈密衞を立ててそこに住まわせることとした。
  • 璽は間者を遣わしてイランの離間を図ったが、イランは応じなかった。ただしイランに捕らえられていた九十餘人を取り戻して帰り、その虚実をすべて把握した。
  • 成化十七年(1481年)、赤斤・罕東の將士を召し集め、牛と酒を饗して、ハシャンを助けさせた。ハシャンは二衞の兵を合わせて夜に哈密およびラモン(拉們)ら八城を襲い、ついにその地を回復した。そのままハシャンを住まわせた。事が奏聞されると褒め労われ、金幣を賜った。
  • のち罕東が侵入したので璽が防ぎ退け、出兵して討つことを請うたが、帝は罕東が常にハシャンを助けていることを思い、ただ使者を遣わして責め諭すにとどめた。
  • 翌年、北の寇が哨兵を殺したので、璽は參將の李俊および赤斤の兵を率いて狼心山の黒河の西でこれを撃ち、斬獲するところが多かった。
  • 成化二十年(1484年)、大同に移鎮した。璽は哈密回復の功がありながら官が進まなかったので朝廷に陳情し、都督同知を実授された。
  • 璽は兵法に通じ文事も心得、勇にして謀があり、廷臣の多くが称した。邊にあること二十餘年、番人に畏れられた。弘治元年(1488年)に卒し、祭葬を賜り、贈官と恤典は手厚かった。