両廣・遼東の鎮守
- 歐信は世職を嗣いで金吾右衞指揮使となった。景泰三年(1452年)、廣東で賊を破った功で都指揮同知に抜擢された。のち白羊口の守備を命じられ、大寧都指揮使に遷った。
- 天順の初め、都督僉事として參將となり、廣東の雷州・廉州の諸府を守備した。巡撫の葉盛がその廉直と勇を推薦し、都督同知に進んで副總兵の翁信に代わった。
- 兩廣の猺・獞が開建を陥れて官吏を殺した。帝は進兵を促し、信は化州の馬里村で賊を破り、また石城で破り、海南衞で反した邵瑄を撃ち斬った。
- 当時、いたるところで盜賊が群れ起こったが、將吏は鎮められなかった。廣西參將の范信は潯州・梧州を守り、猺はことごとくその管内にいたのに、ひそかに猺の賄賂を受けて境を越えて流れ掠めるにまかせ、自分のところは犯すなと約束していた。このため雷州・廉州・高州・肇慶がすべて寇害を受けた。帝は廣西總兵官の陳涇と信に合同で討たせ、時に斬首もあったが賊の勢いは衰えなかった。
- 朝廷はなお范信を頼りにしており、折しも涇が罪で召還されたので、范信を都督僉事に抜擢して副總兵として廣東に鎮させ、信には征蠻將軍の印を帯びさせて涇に代わって廣西に鎮させた。
- 成化元年(1465年)、賊が英德の諸縣を掠めたので、信は討って五百餘人を斬り、さらわれた人々を取り戻した。韓雍が師を督し、信らを五隊に分けて大籐峽を攻め破らせた。その後、残った賊がまた潯州に入り、信は弾劾されたが赦され、召還されて前府の事を司った。
- 成化七年(1471年)春、總兵官として遼東に鎮し、しばしば福餘三衞を破った。ある者が信はもう老いたので召還すべきだと言ったが、巡撫の彭誼は、官軍と古老の五千餘人がみな、信は忠実謹直で謀と勇があり、たびたび戦功を立てて威名は辺境に轟き、六十歳でも騎射は壮士に勝るから召還すべきでないと言っていると奏し、そのまま留鎮となった。
- 久しくして陳鉞が誼に代わった。鉞は功を貪り、信はこれに逆らえなかった。成化十四年(1478年)、巡按の王崇之に弾劾され、その冬に召還された。まもなく中官の汪直らが遣わされて取り調べたが、直は鉞に味方して信らに罪を帰し、獄に下して一階を削り閒住とされ、恨みを呑んで卒した。
- 范信は廣東に移ってからも賊の勢いはいよいよ盛んで、劫掠は止まなかった。そこで人に語って「今、賊がやはり廣東を犯すのは、それも私が差し向けたとでも言うのか」と言った。またこの時、都督の顔彪が征夷將軍の印を帯びて賊を討ったが久しく功なく、良民をみだりに殺して勝報とし、嶺南の人々はみなこれを憎んだ。