明史卷一百七十四 列傳第六十二 周賢

宣府・寧夏の武將

  • 周賢は滁の人。宣府前衞千戸を襲職した。景泰の初め、功を重ねて都指揮僉事に至り、猫兒峪を守備し、副總兵の孫安を助けて實巴爾城を守った。まもなく右參將として安に代わって鎮守した。
  • 烏梁海が侵入したとき、總兵官の過興は宣府副將の楊信と賢に合同で撃たせたが、賢は信を待たず単独で撃ち破った。信は弾劾され、都御史の李秉は、信は出兵を緩めたが賢も約束を破ったと言い、帝は双方を宥した。
  • 天順の初め、總兵官の楊能の奏によって都督僉事に抜擢された。寇が塞下に駐屯したとき、能は賢に大軍と合流するよう檄したが期日に遅れ、召し出されて獄に下された。もとの官のまま寧夏へ赴き、定遠伯石彪の下に属した。
  • 寇二萬騎が安邊營に入ったので、彪は賢らを率いて撃ち、連戦連勝、野馬澗の半坡墩まで追って寇を大敗させたが、賢は追撃をやめず、流れ矢に当たって卒した。詔して都督同知を贈られた。賢は初め吏に下されたとき、もう用いられまいと思ったが、放免されると感激して死をもって報いると誓い、ついにその志のとおりとなった。

周玉(附伝)――宣府・甘肅の鎮守

  • 子の玉は字を廷璧という。本来は指揮使を嗣ぐところ、父が戦死したので二階を越えて萬全都司の都指揮同知となり、屯田を監督し、都指揮使に進んで宣府遊撃將軍となった。
  • 成化九年(1473年)、會昌侯の孫繼宗らが詔を奉じて將才を挙げたとき、玉が筆頭であった。詔して部下を率いて延綏を援けさせ、王越に従って紅鹽池を襲い、署都督僉事に進んだ。
  • 宣府に戻って守り、寇が馬營・赤城に入ったのを撃ち破った。兵部が、宣府の諸大帥は功がないのに玉の部下三千人は敵を追って境外に出せたので一階を加えてその労に酬いたいと言い、実授された。まもなく宣府副總兵となった。
  • 成化十三年(1477年)、征朔將軍の印を帯びて宣府に鎮し、紅崖で敵を破り、水磨灣まで追撃し、署都督同知に進んだ。
  • 成化十七年(1481年)五月、寇がまた侵入した。參將の吳儼、少監の崖榮が塞外まで追って薩巴爾圖に至ったところで遮られ、兵は三つに分かれていずれも包囲された。儼と榮は北山に拠って甚だ苦しんだ。守備の張澄が兵を率いて進み、力戦して二つの囲みを解き、北山の下に至ったが、儼と榮はすでに夜のうちに逃げていた。澄はその部衆を引き取って還ったが、死者は半ばを超え、澄の部下七百人も多くが戦死した。詔して澄の功を録し、儼らの罪を問うた。
  • 玉は先に葛谷堡・赤城がしきりに掠奪を受けたことで三たび論じられていたが、ここに至ってまた統制が厳しくないとして弾劾された。帝はいずれも問わなかった。
  • 成化十九年(1483年)、小王子が大同を侵して總兵官の許寧を破り、順聖川に入って大いに掠め、六千騎で宣府を侵した。玉は二千人を率いて先行し、巡撫の秦紘の兵が続いて進み、白腰山に至ってこれを撃ち破った。指揮の曹洪は西陽河まで邀撃し、都指揮の孫成もまた七馬房で寇を破った。当時、寇は勝ちに乗じて気勢が鋭かったが、ついに玉らに挫かれ、その功は一時称された。
  • まもなく寇がまた入ったが、玉は伏兵を置いて破った。朱永が大同に至り、また玉の軍と合して鵓鴿峪でこれを撃ち破り、署右都督に進んだ。
  • 余子俊が邊牆を築いたとき、玉は力を入れず、また紘とも折り合わなかったので、子俊はこれを憎み、寧夏の神英と鎮を交代させるよう奏した。久しくして甘肅に移鎮した。孝宗が即位すると右都督を実授された。
  • 玉は邊牆の工事の督励が厳しく急であったため、部下の卒の張伏興らが瓦や石を投げつけた。兵部が、荒くれ者の卒をのさばらせてはならないと言い、伏興を誅し、その一味を戍に送った。
  • 土魯番が獅子を貢ぎ、哈密城と金印を返して留め置いた使者を贖いたいと願い出た。玉がこれを奏し、帝は巡撫の王繼とともに処置させた。果たして返還されたので、玉らはみな賜与を受けた。
  • 弘治七年(1494年)、病んで帰り、まもなく卒した。諡は武僖。玉は初め副將であったころ、また宣府に鎮していたころは大いに名があったが、のち甘肅に臨んでからは部下がしばしば失態を犯し、また屯田を侵していたことが死後に発覚し、子は職を襲うにあたって二等を降された。