明史卷一百七十四 列傳第六十二 許貴

大同・松潘の守り

  • 許貴は字を用和といい、江都の人。永新伯許成の子で、職を襲いで羽林左衞指揮使となった。安鄉伯の張安が貴を將才として推挙し、騎射と対策を試したところいずれも最優であったので、署都督指揮同知に抜擢された。まもなく武進伯の朱冕の推薦で山西行都司に抜擢され、大同の諸衞の兵馬の調練を監督した。
  • 正統の末、大同の西路を守備した。エセンが侵入したとき、石亨に従って陽和で戦い、のち敗績したが、貴は力戦して還ることができた。
  • 英宗が北へ連れ去られ(土木の変)、邊城はことごとく破壊された。大同は敵の衝に当たり人心はとりわけ怯えていたが、貴は忠義をもって戦士を励まし、敵が来ればこれを撃ち破った。都指揮使に進んだ。
  • 景泰元年(1450年)春、右參將として、威遠を侵した敵を蒲州營まで追って破り、奪われた人畜を取り戻した。敵の一萬騎が城下に迫ったのをも防ぎ退けた。再び遷って都督同知となった。
  • 大同で馬が不足したので、民間から求めて八百餘匹を得たが、担当の役所が代金を払わなかった。貴が請うてようやく支給された。かつて決死の士を募って賊の塁に入らせ、馬百餘頭を奪い、すべて戦士に与えたので、士はみな喜んで用いられた。
  • 分守の中官である韋力轉が淫虐で、誰も口に出せなかったが、貴はこれを弾劾した。
  • 景泰三年(1452年)、病んで京に還った。英宗が復辟すると左府の事を司らせ、まもなく南京に移した。
  • 松潘の地は番と苗が入り混じり、董卜韓胡に近接しており、旧来は參將一人を置いていた。天順五年(1461年)、守臣が警急を告げたので、廷議で副總兵を置くこととし、貴を鎮守させた。
  • 鎮に到着せぬうちに山都掌蠻が叛いたので、詔して道すがら先にこれを討たせた。貴は二手に分けて直ちにその巣に至り、続けて四十餘の砦を破り、首級千一百、生け捕り八百餘人、残る賊は遠く逃れた。貴もまた瘴気にあてられ、松潘に着かぬうちに卒した。帝はこのために一日朝を廃し、賻と祭葬を制のとおり賜った。

許寧(附伝)――延綏・大同の総兵

  • 子の寧は字を志道という。正統の末、みずから舍人として従軍し、功があって錦衣千戸となった。貴が歿すると指揮使を嗣ぎ、推薦により署都指揮僉事に抜擢され、柴溝堡を守禦した。
  • 成化の初め、大同の遊撃將軍となった。寇が侵入すると同僚の秦傑らとともに小龍州の澗で防ぎ、その右丞バトゥ(巴圖)ら十一人を捕らえた。宣府に移って調練を督し、さらに延綏に移った。
  • 延綏の地は河套に迫っており、寇がしばしば侵入して孤山堡を掠めた。寧は孤軍を率いて奮撃し、三たび戦って三たび勝ち、寇は河を渡って去った。
  • 翌年、寇がまた三千騎で沙河墩に入ったので、總兵官の房能とともに防いだ。寇が退いてまた康家岔を掠めると、寧は塞を出ること百五十里まで追って戦い、馬・牛・羊千餘を得て還った。
  • 当時、能が延綏を守っていたが将略がなく、巡撫の王鋭が援軍を請うたので、詔して大同巡撫の王越に兵を率いて赴かせた。越は寧を西路に出して黎家澗で敵を破らせ、都指揮同知に進めた。また寧と都指揮の陳輝を遣わして寇を追わせ、馬と騾六百を得た。
  • 朝廷は、アルチュル(阿勒楚爾)がまた河套に入り、しきりに邊を騒がすので、越と朱永に防がせた。寧は才があるとして都督僉事に抜擢され、靖虜副將軍の印を帯び、能に代わって總兵官となった。寧は名門の出であるが十年たたずに大將に至り、同列の者も推し譲って及ばず、父の友人の多くがその部下に属したが、それでも急な昇進とはされなかった。
  • ひと月あまりで寇が大挙して侵入し、永は寧と遊撃の孫鉞を遣わして防がせた。博囉堡に至って三日三晩にらみ合い、寇はようやく退いたが、失った兵馬は多かった。寧は力戦して脱出できたので、結局は賞された。
  • その冬、賊が安邊に入ったのを寧が追撃して功があった。成化七年(1471年)、また孫鉞・祝雄らとともに鴻和忽圖河で寇を破り、璽書で褒め奨められた。
  • 迤北の開元王バハ・ボロ(巴哈博囉)がしばしば降ろうとしたが、内には朝廷に咎められることを恐れ、外にはアルチュルが自分を仇とすることを畏れて、ためらって決しなかった。寧が撫慰してその心を固めるよう請い、ついに降した。
  • 翌年、參將の錢亮が師婆澗で敗れ、士卒の十のうち三、四が死んだ。寧は越らとともに弾劾されたが、帝は罪としなかった。
  • 当時、トメンドルル(們都埒)らがしばしば延綏を侵したが、寧が鎮の兵を率いて力戦したので寇は思うようにならず、西路に出て直ちに環慶・固原を侵した。寧は軽騎を率いて夜、鴨子湖にこれを襲い、馬と家畜を奪って還った。
  • さらに翌年、寇が榆林の澗に入ったのを巡撫の余子俊とともに破った。トメンドルルらが大挙して西路に入り、その家族を紅鹽池に留めていたので、越は隙に乗じて寧および宣府の將である周玉とともにその巣を襲い破った。署都督同知に進んだ。子俊とともに邊牆を築き營堡を増やしたので、寇の患いはやや衰えた。
  • 成化十八年(1482年)、寇が数道に分かれて侵入したのを、寧は邊牆に追い詰めて首級百二十を獲、実授された。当時、越が大同に鎮していたので、寧と鎮を交代するよう命じられた。着任すると鎮守太監の汪直と折り合わず、巡撫の郭鏜がこれを報告したので、直は南京に調された。
  • 小王子が大挙して侵入した。寧は敵の勢いが盛んなのを知り、慎重に構えて隙を待とうと兵をまとめて守りに徹し、別に將の劉寧・董升を遣わして周璽と犄角の勢を成させた。寇は大いに掠め、代王の別堡を焼いた。王は戦いを促し、部下たちを轅門で泣かせた。寧は憤って鏜らと城外に陣した。
  • 寇が十餘人を囮に出し、太監の蔡新が部下の騎兵を馳せて撃ったので、寧の將士は争ってこれに赴き、伏兵に遭って大敗し、死者千餘人を出した。寧は夏米莊へ逃げ、鏜と新は馬を馳せて城に入った。折しも璽らが救援に来たので寇は退いた。寧が戻ると、戦死者の家の女子供が泣き叫んで罵り、瓦礫を投げつけたので、寧はすっかり気を落とした。
  • その後また寇が入り、劉寧・宋澄・莊鑑らが防いだが、十たび戦ってほとんど利がなかった。寇が退くと、寧らはその敗北を覆い隠し、かえって勝報として奏した。巡按の程春がこれを暴き、鏜・新とともに獄に下された。鏜は六階、新は初任であるため三階降され、寧は指揮同知に降されて閒住となった。
  • 弘治年間、推薦により署都指揮使となり、調練を分担した。弘治十一年(1498年)十二月に卒し、都督僉事を贈られた。
  • 寧は元服して従軍して以来、大小百十餘戦、身に二十七の傷を受けた。性は沈毅で、官にあっては廉潔、士を待つに恩があり、猟官を潔しとしなかった。劉寧・神英・李杲はみなその麾下から出た。子の泰には別に伝がある。