明史卷一百七十四 列傳第六十二 巫凱

遼東の鎮守

  • 巫凱は句容の人。廬州衞の百戸から功を積み、都指揮同知に至った。
  • 永樂六年(1408年)、英國公張輔に従って交阯を平定した功で遼東都指揮使に遷った。永樂十一年(1413年)、部下を率いて北京に集まるよう召され、翌年、沙漠への征討に従ったが、先に還るよう命じられた。
  • 凱は、諸衞の兵は三分の二を守禦に、一を屯田に充て、開原で買った馬はすべて本衞に給して乗騎・調練に用いるべきだと言い、聴き入れられた。
  • 宣宗が即位すると、都督僉事として征虜前將軍の印を帯び、朱榮に代わって遼東に鎮した。
  • 当時、塞外から脱出して帰った中国人はすべて京師へ送り、親族が来て引き取るのを待たせていた。凱は、遠路の往来で行き場を失い、遠方の人の帰順しようとする心を阻むことになると言い、馬を持つ者と壮健な者だけを京師へ送り、あとは自由にさせるよう改められた。
  • 敵が西山を掠めたのを凱が撃ち破り、奪われた者をすべて取り戻した。敕を下して褒め励まされた。
  • 帝がかつて使者を遣わして松花江で舟を造らせ、諸部を招こうとしたことがある。土地が遠く、軍民の輸送の負担が甚だしく、逃亡する者が多かった。折しも警急があり、凱は強くその役の中止を請うたが、逃げて海西の諸部に入った軍はすでに五百餘人に及んでいた。その後、造舟の役がまた起こり、中官の阮堯民、都指揮の劉清らがこれを監督したが不法が多く、変を引き起こしかけた。凱は堯民らを弾劾して吏に下した。
  • 英宗が即位すると都督同知に進み、邊情について八箇条を上言した。戦死者の家を厚く恤むこと、官吏の折俸の鈔を増やすこと、毎年軍士に冬衣の布と綿を給すること、軍中の口糧と秣は旧制どおりとすること、商人を召して邊を実らせること、などである。いずれも許され実行された。
  • まもなく兵部尚書の王驥に弾劾されたが、朝廷は凱の賢を知っており、凱に自ら弁明させたうえで、文武の官に罪があると告発して事実であれば奏上を認め、誣告した者は罪を許さないと廷臣に諭した。凱はこれによってその志を行うことができた。
  • 正統三年(1438年)十二月、病を得た。医者を馳せ遣わして診させたが、着かぬうちに卒した。
  • 凱は性格が剛毅で知略に富み、衆を統べるのに厳しくも恩があった。遼東にあること三十餘年、威と恵とが並び行われ、邊務は整えられた。前後して東の辺境を守った者では、曹義のほかは誰も及ばなかった。

曹義(附伝)――遼東の総兵

  • 曹義は字を敬方といい、儀真の人。燕山左衞指揮僉事から功を重ねて都督僉事に至り、巫凱の副として遼東を守り、凱が卒すると代わって總兵官となった。凱は名將であったが、義はその後を承け、廉直で節操を守り、遼東の人々は安んじた。
  • 烏梁海(ウリャンハイ)が廣寧の前屯を侵したため、詔で厳しく責められ、王翺を遣わして軍務を正させ、義を死罪に当たると弾劾させた。まもなく義は邊を侵した貝台らを捕らえ、詔によって市中で誅された。
  • 以後、義はしばしば烏梁海と戦った。正統九年(1444年)、朱勇の軍と合流して挟み撃ちにし、斬獲が多く、都督同知に進み、累進して左都督となった。
  • 義は邊にあること二十年、目立った大功はなかったが、よく辺境を謹んで守り、その麾下の施聚・焦禮らはみな大將に至った。
  • 英宗が復辟すると、特に義を豐潤伯に封じ、聚もまた懷柔伯に封じられた。四年後に義は卒し、侯を贈られ、諡は莊武。継室の李氏が殉死し、詔でこれを旌表した。

施聚(附伝)――遼東の勇將

  • 施聚は、その先祖は沙漠の人で、順天の通州に住んだ。父の忠は金吾右衞指揮使として北征に従い、陣中で歿した。聚は職を嗣ぎ、宣德年間に遼東の備えに当たり、累進して都指揮同知となり、曹義の推薦で都指揮使に進んだ。義が烏梁海と戦ったときは、聚はいつも従った。
  • エセン(額森)が京師に迫ると、景帝は詔して聚と焦禮をともに入衞させた。聚は慟哭してその日のうちに兵を率いて西へ向かった。部下が牛と酒を進めると、聚は手を振って「天子は今どこにおられるのか。我らが何の心地でこれを飲み食いできよう」と言った。着いたときには寇はすでに退いていたので還った。
  • 聚は勇敢さで知られ、官は左都督に至った。英宗の推恩に当たって伯に封じられ、義に遅れること二年で卒した。侯を贈られ、諡は威靖。
  • 義は三代伝わって棟に至り、聚は四代伝わって瑾に至った。吏部はいずれも襲封すべきでないと言ったが、世宗は特にこれを許し、爵は明の滅亡まで伝わった。