明史卷一百七十三 列傳第六十一 郭登

出自と大同の死守

  • 郭登は字を元登、武定侯郭英の孫である。幼くして英敏、長じては博聞強記で議論を善くし、兵を談ずるのを好んだ。洪熙のとき勲衛を授かった。正統年間、王驥に従って麓川を征して功があり、錦衣衛指揮僉事に抜擢され、また沐斌に従って騰衝を征し、署都指揮僉事に遷った。
  • 十四年(1449年)、車駕が北征し、扈従して大同に至り、序列を越えて都督僉事に拝され参将に充てられ、総兵官の廣寧伯劉安を補佐して鎮守した。朱允らの軍が覆り、あわてて軍を返すことが議されたとき、登は学士の曹鼐・張益に「車駕は紫荊関に入られるべきだ」と告げたが、王振は従わず、ついに敗に至った。
  • このとき大同の軍士は多く戦死し、城門は昼も閉ざされ、人心は騒然としていた。登は奮い立って城壁を修め兵器を繕い、士卒を撫し、死者を弔い傷を問い、自ら傷を包んで薬を塗り、「私は誓ってこの城と存亡を共にする。諸君だけを死なせはしない」と言った。
  • 八月、額森が帝を擁して北へ去るとき大同を経て、袁彬を城に入れて金幣を求めさせた。登は城門を閉ざしたまま飛橋で彬を引き入れた。登は安および侍郎の沈固、給事中の孫祥、知府の霍瑄らと出て謁し、地に伏して慟哭し、金二万余および宋瑛・朱冕・内臣郭敬の家財を進めて、額森らに賜うようにした。
  • その夕、敵は城の西に営した。登は壮士を遣わして営を襲って駕を迎えることを謀ったが果たせなかった。翌日、額森は帝を擁して去った。

大同総兵としての勝利

  • 景帝が監国して都督同知に進み副総兵に充てられ、まもなく安に代わって総兵官とした。十月、額森が京師を犯し、登は部下を率いて援けに入ろうとして、先に蝋書を馳せて奏したが、奏が届いたときには敵はすでに退いていた。景帝は優詔で褒め答え、右都督に進めた。登は、京兵は新たに集まったばかりで軽々しく用いるべきでないとし、用兵の方略十余事を上げた。
  • 景泰元年(1450年)春、寇の騎数千が順聖川から入って沙窩に営したと偵知し、登は兵を率いて尾行して大いにその衆を破り、追って栲栳山に至って二百余級を斬り、掠われた人と家畜八百を取り戻した。
  • 辺将は土木の敗以来、萎縮して寇と戦う者がなかったが、登は八百人で敵の数千騎を破り、軍の気はこれによって一気に振るった。勝報が届いて定襄伯に封じ世券を与えた。
  • 四月、寇の騎数千がにわかに至り、登は東門を出て戦い、偽って敗れて誘い、土城に入ったところで伏兵が起こり、敵は敗走した。登は敵がまた来ると読み、軍士に毒を入れた酒と羊・豚・紙銭を持たせて墓を祭る者を装わせ、寇を見たら棄てて走らせた。寇が来て争って飲み食いし、死者は甚だ多かった。
  • 六月、額森がまた二千騎で侵入し、登は再びこれを撃ち退けた。数日を越えて上皇を奉じて城外に至り、駕を送り還すと言いふらした。登は共に守る者と計を設け、朝服を整えて月城の内で駕を待ち、城上に兵を伏せて、上皇が入ればすぐ月城の閘を下ろすことにした。額森は門まで来て気づき、上皇を擁して去った。
  • 当時、鎮守中官の陳公が登を忌み、ちょうど公の不正蓄財を摘発する者があったので、公は登がさせたと疑い、そこで登と争った。帝は于謙に「大同は我が垣根である。公と登がこのようでは、どうやって守るのか」と言い、右監丞の馬慶を遣わして公に代え、公を還らせた。登はいよいよ発奮した。
  • 初め額森は大同を取って本拠にしようとして、しばしば攻めに来たが、来るたびに敗れ、一営数十人が還らないこともあり、敵の気は挫け、初めて上皇を還す意を生じた。
  • 上皇が還ると、代王の仕壥が登の功を頌えて敕を降して労うことを乞うたが、兵部は登がすでに伯に封ぜられているとして取りやめとなった。
  • 二年、登は老いと病により引退を乞い、石彪を挙げて自分の後任にしようとし、かつその子の嵩を宿衛させることを請うた。帝は嵩を散騎舎人としたが、登の辞任は聴かなかった。
  • このとき辺境の患いが収まったばかりで、登は心を尽くして手を打ち、公正清廉で為すところある者を得て共にしたいと思い、そこで沈固が職務を怠っていると劾奏し、尚書の楊寧・布政使の年富を薦めた。また、大同にはすでに御史がいるうえに巡按御史・僉都御史の任寧がおり、寧は宣府の巡撫だけにすべきだと言った。帝はことごとく従い、年富を固に代え、固および寧を召し還した。
  • その秋、病により召し還された。登が初め大同に着いたときは、士卒で戦える者はわずか数百、馬は百余匹であったが、このときには馬は一万五千、精鋭の卒は数万に至り、屹然たる巨鎮となっていた。登が去ると大同の人は偲んだ。

英宗の恨みと晩年

  • 初め英宗が大同を通ったとき、人を遣わして登に「朕と登とは姻戚である。なぜ朕をこのように拒むのか」と言わせた。登は「臣は命を奉じて城を守るのみ。その他は存じません」と奏した。英宗はこれを根に持った。復辟に及んで登は免れないことを懼れ、まず八事を陳べたが多くは迎合であった。
  • まもなく南京中府の事を掌るよう命ぜられた。翌年召し還され、言官が登は陳汝言と結んで召されたのだと弾劾し、取り調べて事実とされ斬を論ぜられたが、死を宥されて都督僉事に降され甘肅で功を立てさせられた。
  • 憲宗が即位すると詔して伯爵を復し甘肅総兵官に充てた。辺軍が馬を弁償するのに苦しみ妻子を売るに至っていると奏し、楚・慶・肅の三王府の馬を各千匹借り、官がその代価を払うことを乞い、従われた。
  • 朱永らの推薦により召されて中府の事を掌り神機営の兵を総べた。成化四年(1468年)、また十二団営が設けられ、登に朱永とともに提督させた。八年(1472年)に卒し、侯を贈り忠武と諡した。
  • 登は姿かたちが甚だ立派で、髯は垂れて腹を過ぎた。将となって智と勇を兼ね、紀律は厳明、敵を読んで勝ちを制し、動けば時宜にかなった。
  • かつて考案して「攪地龍」「飛天網」を造った。深い塹を掘って土と木で覆い平地のように見せ、敵が囲みの中に入るとその仕掛けを発動させ、互いに突き当たってたちまち皆落ち込んだ。また古制に倣って偏箱車・四輪車を造り、車の中に火器を蔵し、上に旗を建て、鉤と環で連ね、並べて陣を成し、戦にも守にも用いられた。
  • その軍は五人を一伍とし、神祠で誓わせることを教え、一人に功があれば五人ともに賞し、罰もまた同じとした。十伍を一隊とし、隊は六十斤の弓を挽ける者を先鋒とし、十隊を一都指揮に領させ、功が互いに妨げ合わず罪には専らの責任があるようにした。当時これを善しとした。
  • 登は母に仕えて孝、喪に居って礼を守り、詩を能くし、明代の武臣で及ぶ者がなかった。
  • 子がなく、兄の子の嵩を子とした。登が甘肅に流されたとき家を京師に残したが、嵩はその衣食を切り詰め、登の妾は縫い物で暮らしを立てて危うく死にかけたが顧みなかった。登は還って嵩を退けようとしたが、その婿が会昌侯の家にあり、侯がかつて自分を救ってくれたので、堪えて事を起こさなかった。登が卒すると嵩は爵を襲いだが、後に登の嫡系でないとして嵩一代限りとされ、子の參は錦衣衛指揮使に降された。