明史卷一百七十三 列傳第六十一 石亨
渭南の人。伯父の職を嗣いで寛河衛指揮僉事となり、騎射と大刀の勇で累進して大同の左参将となり、辺将では楊洪に次ぐと目された。土木の年に陽和口で敗れて官を降されたが、于謙の推薦で五軍大営を掌り、額森が京師に迫ると徳勝門を守って伏兵で大破し、その功で侯に進んだ。景泰八年、帝の病を見て張軏・曹吉祥らと上皇の復辟を謀り、第一の功として忠國公となったが、奪門の名簿に四千余人を紛れ込ませ、于謙・范廣らを殺し、大権を私して驕った。従子の彪の不法から一門は追及を受け、亨も閒住ののち謀叛に坐して詔獄に下り、獄中で病死して彪ともども家は滅んだ。
年表(8件)
- 正統六年1441年大同四衛の軍を分けて淨水坪以西を開墾させることを請い、許される
- 正統十四年1449年馬麟と塞外を巡邏し、箭谿山で烏梁海の衆を破って都督同知に進む
- 正統十四年1449年秋に陽和口で額森に敗れ、単騎で走り還って官を降される
- 景泰元年1450年鎮朔大将軍として京軍三万を率い大同を巡哨し、寇を破る
- 景泰八年1457年帝の病が重いのを見て、張軏・曹吉祥らと上皇を迎え立てることを謀る
- 天順三年従子の彪が大同鎮守を謀って詐りが露見し、詔獄に下される
- 景泰改元彪が遊撃将軍として威遠衛を守備し、礟で敵を撃退する
- 天順二年1458年彪が李文とともに延綏に赴いて寇を防ぐよう命ぜられる
出自と辺功
- 石亨は渭南の人。生まれつき異相で、四角い顔に立派な体躯、美しい髯は膝に及んだ。その従子の彪も堂々としてこれに似、鬚もまた腹を過ぎた。酒屋に飲みに行ったとき、人相見が「今は平世なのに、二人ともなぜ封侯の相があるのか」と言った。
- 亨は伯父の職を嗣いで寛河衛指揮僉事となった。騎射を善くし大刀を用いることができ、戦うたびに敵を打ち破った。正統の初め、首級の功により累進して都指揮僉事。黄牛坡で敵を破って馬をきわめて多く獲た。三年正月、敵三百余騎が黄河で馬に水を飲ませていたので、亨は官山の下まで追撃して斬獲が多く、都指揮同知に進んだ。まもなく左参将に充てられ武進伯朱冕を補佐して大同を守った。
- 六年(1441年)、上言して、辺の兵糧が続きにくいので、大同左衛・右衛、玉林・雲川の四衛の軍を分けて淨水坪から西の空き地を開墾させ、官が牛と種を給せば年に糧一万八千石を増せると請うた。翌年また、大同西路の屯堡はみな最前線に臨んでおり、玉林の故城は右衛から五十里で東勝の単于城に接し、水草の便がよいので、軍を分けて塁を築き屯田を防護させることを請うた。詔していずれも許して行わせた。
- まもなく紅城で敵を破った功で都指揮使に進んだ。敵が延安を犯したので金山まで追ってこれを破り、再び都督僉事に遷った。
- 亨は、国制では将才を探す範囲が広くないとして、漢唐の制に倣って「軍謀宏遠」「智識絶倫」などの科を設け、人が自ら申し出て試験を受けて登用され、保挙だけによらないことを請い、許された。
- 十四年(1449年)、都督僉事の馬麟と塞外を巡邏し、箭谿山に至って烏梁海の衆を破り、都督同知に進んだ。このとき辺将で智勇ある者は楊洪を第一とし、その次が亨であった。亨は副将であったが中朝はこれを大帥のように頼み、亨もまた力を尽くした。
- その秋、額森が大挙して大同を寇し、亨および西寧侯の宋瑛・武進伯の朱冕らが陽和口で戦い、瑛と冕は戦死し、亨は単騎で走り還った。官を降されて兵を募り功を立てさせられた。
北京防衛と奪門の変
- 郕王が監国すると、尚書の于縑が薦め、召されて五軍大営を掌り右都督に進んだ。まもなく武清伯に封ぜられた。額森が京師に迫ると、都督の陶瑾ら九将とともに兵を分けて九門の外に営を張り、徳勝門は敵の衝に当たるので特に亨に命じ、于謙が尚書として軍を督した。
- 寇が彰儀門に迫り、都督の高禮らが退けた。転じて徳勝門の外に至り、亨は謙の令を用いて伏兵で誘い撃ち、死者は甚だ多かった。やがて寇は孫鏜を西直門の外で囲んだが、亨が救ったので退いた。対峙すること五日、寇は衆を収めて逃げた。論功で亨が最も多く、侯に進んだ。
- 景泰元年(1450年)二月、鎮朔大将軍の印を佩びて京軍三万人を率いて大同を巡哨し、寇に遇って破った。その秋、世襲の誥券を与えられた。皇太子が替わると亨に太子太師を加えた。于謙が団営を立てると亨に提督させ、総兵官は元のまま。
- 八年(1457年)、帝が郊祀のため斎宮に宿したが、病が起こって自ら礼を行えず、亨を召して代えさせた。亨は寝台の前で命を受け、帝の病が甚だ重いのを見て、張軏・曹吉祥らと上皇を迎え立てることを謀った。
専権と失脚
- 上皇が復辟すると、亨は第一の功として爵を忠國公に進め、寵遇は格別で、言うことに従わないものはなかった。その弟・姪・家人で功を偽って錦衣となった者は五十余人、部下や親戚旧知で奪門の名簿に名を紛れ込ませて官を得た者は四千余人。両京の大臣は追い払われてほぼ尽き、私人から重い賄を受けて、太僕丞の孫𢎞、郎中の陳汝言・蕭璁・張用瀚・郝璜・龍文・朱銓、員外郎の劉本道を引き立てて侍郎とした。当時「朱三千、龍八百」という言葉があった。勢いの炎は焼き焦がすばかりで、出世を望む者は競ってその門に走った。
- すでに私怨から于謙・范廣らを殺し、また給事中の成章、御史の甘澤ら九人がかつてその失を攻めたので貶して退け、しばしば大獄を起こして耿九疇・岳正を陥れ、楊瑄・張鵬を辺境に流し、周斌・盛顒らを謫した。また文臣が巡撫となって武臣を抑えほしいままにさせないのを憎み、ことごとく引き揚げさせた。これにより大権はことごとく亨に帰した。
- 亨は参内しない日はなく、しばしば政事に関与した。請うたことが容れられないと不機嫌が言葉と顔色に表れ、召されなくても必ず事にかこつけて入り、退出すれば大いに勢いを張って権力を売った。久しくして帝は堪えられなくなり、かつて閣臣の李賢に語った。賢は「ただ独断されればよろしい」と言い、帝は然りとした。
- ある日、帝は賢に「閣臣は事があれば内々の拝謁を要する。あの武臣はなぜ頻繁に見えるのか」と言い、そこで左順門に敕して、召し出しでなければ総兵官を入れてはならないとした。亨はこれより内々の拝謁が稀になった。
- 亨はかつて帝に申し出てその祖の墓に碑を立てようとした。工部が亨の意を汲んで、有司に敕して建立させ翰林院に文を撰させることを請うた。帝は永樂以来、功臣の祖宗のために碑を立てた例がないとして部の臣を責め、亨に自分で立てさせた。
- 初め帝は担当官に命じて亨のために邸を営ませたが、完成すると壮麗が制を超えていた。帝が翔鳯楼に登ってこれを見て「誰の住まいか」と問うと、恭順侯の吳瑾はわざと「これは必ず王府でしょう」と答えた。帝が「違う」と言うと、瑾は「王府でないなら、誰がこれほど僭上できましょうか」と言い、帝は頷いた。
- 亨の権勢は君主に並び、従子の彪もまた定遠侯に封ぜられて亨と同じく驕り横暴であった。両家は材官・猛士を数万養い、中外の将帥の半ばはその門から出、都の人は横目に見た。
- 三年秋、彪が大同に鎮することを謀り、千戸の楊斌らに推挙を奏させた。帝はその詐りを見抜き、斌らを捕らえて拷問して事実を得、震怒して彪を詔獄に下した。亨は懼れて罪を請い、帝は慰め諭した。亨がその姪の官をことごとく削って郷里に帰すことを請うたが、帝はこれも許さなかった。
- 彪を取り調べて繡の蟒龍衣および式に外れた寝台など諸々の不法が明らかとなり、罪は死に当たった。そこで彪の家を籍没し、亨には養病を命じた。
- 亨はかつて京衛指揮の裴瑄を遣わして関を出て木材を買い、大同指揮の盧昭を遣わして逃亡者を追捕させたが、ここに至って事が発覚し、法司は亨を罰することを請うたが、帝はなお不問に置いた。
- 法司が再び彪を取り調べたところ、彪は、初め大同遊撃であったとき代王の増禄を自分の功とし、王が来て跪いて謝し、これより幾度ももてなして彪が歌妓を出して酒を注がせたと言った。彪が親王を侮った罪もまた死に当たった。よって亨が権をほしいままにし賄を受けて憚るところなく振る舞い、術士の鄒叔彛らとひそかに天文を講じみだりに吉凶を談じたことを弾劾し、重罰に処すべきだとした。帝は彪を獄に閉じ込め、亨は閒住とするよう命じ、朝参を罷めた。
- 折しも奪門の功を取り消し、亨の一党を徹底して調べることが議されており、亨によって官を得た者はことごとく退けられ、朝廷の官署は一挙に清明となった。
- 翌年五月、錦衣指揮の逯杲が、亨が怨望してその従孫の後らと妖言を造り、無頼を養い、専ら朝廷の動静をうかがい、謀反の跡がすでに明らかだと奏した。廷臣はみな軽々しく宥すべきでないと言い、そこで亨を詔獄に下し、謀叛の律に坐して斬とし、その家財を没収した。一月を越えて亨は獄中で病死し、彪と後もともに誅に伏した。
石彪
- 彪は驍勇で戦を敢えてし、斧を用いるのが巧みであった。初め舎人として従軍。正統末、功を積んで指揮同知に至った。額森が京師に迫って退いた後、残る寇を追撃してかなりの斬獲があり、署都指揮僉事に進んだ。景泰改元、詔して正式の任官を与え、遊撃将軍に充てられ威遠衛を守備した。敵が土城を囲むと彪は礟を用いて百余人を撃ち殺し、敵は逃げ去った。
- 塞上では日々戦があり、彪の勇は同輩に抜きん出て、戦うたびに必ず勝ったので、一年のうちに数度昇って都督僉事に至った。亨の勢いを恃んで多く家人を放って民の産を占め、また流亡五十余戸を招き入れ、檀越関に荘園を置いて田を開いた。給事中の李侃・御史の張奎に弾劾され、あわせて亨をも罰することを請われたが、景帝はみな宥して問わず、ただ民の産を返させ流亡の戸を帰して生業に復させただけであった。
- 三年冬、右参将に充てられ大同を協守した。かつて巡撫の年富が自分を抑えて思うようにさせなかったのを恨んでいた。英宗が復辟して彪が召し還され、亨が志を得たとき、彪は富の罪を誣告して獄に至らせた。
- まもなく都督同知に進み、再び遊撃将軍として大同に赴いて敵に備えた。参将の張鵬らと磨兒山を哨したとき、寇千余騎が襲って来た。彪は壮士を率いて突撃し、巴圖王を斬ってその旗を奪い、百二十人を捕らえ斬り、追って三山墩に至ってさらに七十二人を斬った。これにより定遠伯に封ぜられ、遊撃は元のまま。
- 天順二年(1458年)、高陽伯の李文とともに延綏に赴いて寇を防ぐよう命ぜられ、病で召し還されたが、まもなく総兵官に充てられた。翌年正月、保喇の二万騎が安邊營に入って掠めた。彪は彰武伯の楊信らとこれを防ぎ、連戦していずれも勝ち、追って塞を出、転戦六十余里、四十余人を生け捕り、斬首五百余級、馬・駝・牛羊あわせて二万余を獲た。西北の戦功の第一とされた。勝報が届いて侯に進んだ。
- 彪はもと戦功で身を起こし父兄の廕を借りなかったが、一門に二人の公侯が出て勢いは盛んで驕り、多く不義を行った。大同に鎮することを謀り、亨と表裏をなして兵権を握ったので帝に疑われ、ついに禍に遭った。
- 後は天順元年の進士で、亨を助けて策をめぐらした。都督の杜清は亨の門下から出た。後が造った妖言に「土木の者が兵権を掌る」という語があり、これは杜のことを言ったものである。事が発覚して後は誅に伏し、清もまた金歯に流された。