明史卷一百七十二 列傳第六十 孫原貞

浙江の盗賊平定

  • 孫原貞は名を瑀といい、字で通った。德興の人。永樂十三年(1415年)の進士で礼部主事、郎中を歴任した。英宗の初め、推薦により河南右参政に抜擢された。官にあって清廉慎重で、吏才があった。正統八年(1443年)、大臣の連名推薦で浙江左布政使に遷った。
  • 久しくして盗が閩・浙の間で大いに起こり、赦されてまた叛いた。景帝が即位して兵を発して討たせた。原貞はかつて賊が必ず叛くと見て方略を上げ備えを請うていたので、ここに至って原貞に軍事に参議させた。深く入って首魁を捕らえたが、温州の残賊はまだ滅びなかった。都指揮の李信を都督僉事として軍を動員して討たせ、原貞を兵部左侍郎に拝して信の軍務に参じ浙江を鎮守させた。母の喪で去るべきところ、副都御史の軒輗が留任を請い、許された。
  • 景泰元年(1450年)、原貞は兵を進めて賊の本拠を突き、首賊の陶得二らを俘斬し、三千六百余人を招き撫し、掠われた男女を取り返した。勝報が届いて璽書で奨励された。奔喪を請い、一月余りで鎮に還り、また兵を分けて残る寇を討ち平らげた。
  • 奏して瑞安の地を分けて泰順を増置し、麗水・青田二県の地を分けて雲和・宣平・景平の三邑を置き、官を建て戍を置き、盗の患いはついに止んだ。論功して秩を一等進めた。
  • 浙の官田は賦が重く、右布政使の楊瓚が民田で軽い額の者と均すことを請い、詔して原貞に督させ、田賦は平らかになった。
  • 三年、賊を防いで戦死した武臣、指揮同知の脱綱・王瑛、都指揮僉事の沈鱗・崔源を褒め贈ることを請い、みな贈恤を得た。六月、兵部尚書に進み鎮守は元のまま。まもなく福建の官人を考課するよう命ぜられ、そのまま留まって鎮した。福州・建寧二府には古くから銀の製錬所があったが寇乱で廃されていた。朝議は再開しようとしたが、原貞が不可を主張して取りやめとなった。

屯田・漕運・流民の建言

  • 五年(1454年)冬、上疏して言った。「四方の屯軍はおおむね営繕・輸送の諸役で耕作を妨げられている。精鋭を選んで隊伍を満たし、残りはみな農に帰すべきである。かりに一万人の屯を増せば、年に倉の糧十二万石を省き、かつ余った糧六万石を積める。兵と食にどうして不足があろうか。今、年に数百万石を漕運し、道中の費用は計り知れない。浙江の糧軍が兌運する米は一石につき耗米七斗を加え、民が自ら運ぶ米は一石につき八斗を加え、その他は水路の遠近を計って耗を加える。これでは田は増えないのに賦の取り立ては実に倍になる。民が困らぬようにと望んでも得られない。まして今、太倉には十数年分の蓄えもなく、水旱に遭えば何をもって救うのか。入るを量って出ずるを為し、無駄な扶持と余計な費用を削り、倉の蓄えが豊かになるのを待って次第に年の漕運数を減らせば、民の困窮は蘇るであろう」。
  • 「臣は昔、河南に官したとき、逃亡した民の籍を調べたところ凡そ二十余万戸あり、ことごとく南陽・唐・鄧・襄・樊の間に移り住んで群れ集まって生計を立てていた。どうして盗にならぬと保証できよう。今の豊年のうちに近臣を遣わして巡行させ、有司を督して編戸に籍づけ、田と生業を給し、農桑を課し、社学・郷約・義倉を立て、本を敦くして生業に務めさせ、生計が定まってから徐々に賦役を議すれば、後日の患いはなかろう」。
  • 当時これをすべて用いることはできなかったが、後の劉千斤の乱は果たして原貞の予測どおりであった。
  • やがてまた浙江を鎮した。英宗が復位すると罷めて帰り、成化十年(1474年)に卒した。年八十七。原貞は赴く先々で功績があり、浙江ではとくに名が著しかった。

孫需

  • 孫需は字を孚吉。成化八年(1472年)の進士。常州府推官となり、疑わしい訴訟をたちどころに裁いた。南京御史に抜擢され、僧の繼曉を弾劾して旨に逆らい杖を受け、出て四川副使。𢎞治年間、累進して右副都御史・河南巡撫。凶年に民を募って汴河の堤を築き、堤が成って飢えた者も救われた。
  • 鎮守中官の劉瑯は貪欲横暴で、奸民で瑯に訴え出る者を、需は法によって裁いて辺境の守備に送った。瑯は跪いて頼んだが、需は聴かず、瑯は骨の髄まで恨んだ。大臣の子が郷里で横暴なのを需が抑えたので、瑯は謀って需を陝西巡撫に改めさせ、まもなく鄖陽巡撫に改めさせた。流民を落ち着かせて籍に付けた者は九万余戸に及んだ。
  • 正徳元年(1506年)、召されて南京兵部右侍郎。四年、そのまま礼部尚書に拝されたが、二月も経たぬうちに劉瑾がこれを憎み、河南を撫したときの事を追及して米を罰として辺に納めさせた。廷推で需を刑部尚書としたが、中旨で致仕させられた。瑾が誅されると南京工部尚書に起用され、そのまま刑部に改まり、再び吏部に改まった。十三年、引退を乞うて去り、嘉靖の初めに卒した。清簡と諡された。

張憲

  • 張憲は字を廷式。需と同郷で同じ年に進士に挙げられ、相次いで尚書となった。かつて浙江左布政使を務めた。後に工部右侍郎として易州の山厰を督し、公金に毛筋ほどの私もなかった。南京礼部尚書を歴たが、劉瑾に致仕を強いられた。瑾が誅されると工部に起用され、そこで卒した。