出自と地方行政
- 王來は字を原之、慈谿の人。宣徳二年(1427年)、会試の乙榜により新建教諭を授かった。寧王府が諸生を楽舞に充てていたので、來は道士に替えることを請うた。諸王府が楽舞生を設けたのはここに始まる。
- 六年、推薦により御史に抜擢され、出て蘇州・松江・常州・鎮江の四府を按じた。巡按の周忱とともに属吏を考課するよう命ぜられ、その敕に「上の裁可を請え」という語があった。來は「民を害する吏は、去らせるのに間に合わぬのを恐れるほどです。必ず請うてから行うのでは、民の困窮は増すばかりです」と言い、帝はそのために敕を改めて賜った。
- 中官の陳武が太后の命で江南に使いして甚だ横暴だったので、來は何度もこれを抑えた。武は還って帝に訴えた。帝は都御史の顧佐に「巡按は誰か」と問い、佐が來と答えると、帝は歎息してその賢を称え「覚えておけ」と言った。復命のとき、褒める言葉は至れり尽くせりであった。
- 英宗が即位すると、楊士奇の推薦で山西左参政に抜擢された。言上した、「流民は行った先で家を成し、故郷に招き還されても、そのつど産を失って再び逃げ去る。所在地に応じて籍に付けるのが便宜である」。また言った、「郡県の官が農業を務めとしないので民に遊惰が多く、催徴すればすぐに命を落とす。朝廷はその失業を憫れんで詔を下して免除するが、田は日々荒れ、租税の出所がなく、累は良民に及ぶ。守長の賢明な者を択んで農を課すことを職とさせ、荒田は近隣の家に力を合わせて耕させ、租を納めた残りは均分を許し、元の持ち主が復業すればこれを返す。蚕桑で本業を助けられるものはその計画に任せ、なお提学・風憲の官に督させれば、人は本業に務めることを知るであろう」。これに従った。
- 來は官にあって清廉、政務に練達した。侍郎の于謙が山西を撫したとき、しきりにその才は近侍に置けると称えた。しかし來は法の執行が厳しく、悪を憎むことが甚だしく、公事で職務に堪えない県令十人を杖で死なせ、逮捕されて獄に下り徒刑に当てられた。赦に遇って元の官のまま広東に転補された。來はこれ以後、態度を改めて穏当を旨とし、政もまた挙がった。
苗の乱の平定
- 正統十三年(1448年)、河南左布政使に遷る。翌年、左副都御史に改まり、河南および湖廣の襄陽諸府を巡撫した。額森が京師に迫ると、來は兵を督して勤王のため河を渡ったが、寇が退いたと聞いて引き返した。
- 景泰元年(1450年)、貴州の苗が叛き、湖廣・貴州軍務を総督していた侯璡が軍中で卒したので、來を右都御史に進めて代えた。保定伯の梁珤、都督の毛勝・方瑛と兵を合わせて進み討った。靖州に至ったとき賊は長沙・寳慶・武岡を掠めていた。來らは道を分けて迎え撃ち、俘斬三千余人、賊は逃げ去った。やがてまた出て掠めたが、官軍は連戦していずれも勝った。
- 賊魁の偉同烈が興隆に拠って平越・清平の諸衛を脅かしたので、來は方瑛とこれを撃ち破った。賊は退いて香爐山に拠った。山は切り立っており、勝と瑛は都督の陳友と三道から進み、來は瑤と大軍で後に続いた。前後三百余の寨を破り、香爐山の下で合流し、礟を発して崖の石を轟かせ、その音は地を動かした。賊は懼れて同烈および賊将五十八人を縛って降り、残りはことごとく解散した。
- そのまま軍を清平に移し、四川の兵に檄して共に都匀・草塘の諸賊を討たせた。賊は風を望んで牛と酒を用意して迎え降った。賊が平らぐと軍を還し、詔して來と珤を留めて鎮撫させた。まもなく來に貴州巡撫を兼ねさせた。
- 奏して言った、「近ごろ黔・楚の用兵のため暫く鬻爵の例を行ったが、今は寇賊がやや静まった。ただ平越・都匀ら四衛の兵糧については、商人を召して中塩とし、納米の例を罷めるべきである」。従われた。
- 三年(1452年)十月、召還されて大理寺卿を兼ねることを加えられた。珤は來の功が大きいとして特別の顕彰を乞うたが、都給事中の蘇霖が反駁して取りやめとなった。
- 來が還る道中、貴州の苗がまた反したので、敕して軍を返して進み討たせた。翌年、事が平らぎ、召されて南京工部尚書となった。英宗が復辟して六尚書がことごとく罷められ、來は帰った。成化六年(1470年)、家で卒した。