明史卷一百六十九 列傳第五十七 髙榖

内閣入りと奉迎の議

  • 髙榖は字を世用といい、揚州興化の人。永樂十三年(1415年)の進士で、庶吉士に選ばれ、中書舍人に任じられた。仁宗が即位すると春坊司直郎に改められ、まもなく翰林侍講に遷った。
  • 英宗が即位して經筵が開かれると、楊士竒が髙榖および苗𠂻・馬輸・曹鼐の四人を推薦して侍講・侍読とした。
  • 正統十年(1445年)、侍講學士から工部右侍郎に進み、内閣に入って機務を掌った。景泰の初め、尚書兼翰林學士に進み、閣務を掌ることは従前どおりであった。
  • 英宗が還ろうとしたとき奉迎の礼が薄かったので、千戸の龔遂榮が髙榖に書を投じ、礼は厚くすべきだとして唐の肅宗が上皇を迎えた先例を引いた。髙榖はこれを袖に入れて参内し、廷臣に広く示して「武夫でさえ礼を知っている。まして儒臣においてをや」と言った。人々はその言をよしとし、胡濙と王直はこれを奏聞しようとした。髙榖は「還幸の議が上奏されてから、主上の御意が久しく定まらない。この書を進めて、朝野が心を一つにしていると主上に知らせるのも一つの助けである」と言った。都御史の王文は不可とした。
  • やがて言官がこれを奏し、どこから得たものかと問い糺されたので、髙榖は「臣のところからです」と答え、そのうえで上章して龔遂榮の言のとおりにするよう懇請した。帝は従わなかったが、罪にも問わなかった。
  • 景泰二年(1451年)、少保・東閣大學士に進んだ。東宮が替えられると太子太傅を加えられ、二人分の俸を給された。應天・鳳陽が災害に遭ったときは三陵を祀り貧民を振恤するよう命じられた。景泰七年(1456年)、謹身殿大學士に進み、なお東閣大學士を兼ねた。

内閣での正論と致仕

  • 内閣の七人は言論がしばしば食い違ったが、髙榖は清廉率直で持論が正しかった。王文は髙榖の推薦によって入閣したのに、たびたび髙榖を押しのけた。髙榖は幾度も機務を解いてほしいと請うたが許されなかった。
  • 都給事中の林聰が権要に逆らって死罪を論じられたとき、髙榖が力を尽くして救い、軽い譴責で済んだ。
  • 陳循および王文が考官の劉儼・黄諫を陥れようとしたとき、帝は禮部に髙榖を加えて試験答案を再検討するよう命じた。髙榖は劉儼らに私心がなかったことを強く述べ、そのうえで「貴顕の子弟が寒士と及第を競うだけでも不当なのに、まして義と天命に安んじられず、これに乗じて考官を陥れようとするとは何事か」と言った。帝はそこで陳循・王文の子に及第を賜り、ただ林挻一人を落第させただけで、事は収まった。
  • 英宗が復位して陳循・王文らがみな誅殺・流謫されたとき、髙榖は病と称して職を辞した。英宗は髙榖を長者だと考え、廷臣たちに「髙榖は内閣で御駕の奉迎および南内の件を議したとき、しばしば朕を助けてくれた。金帛と襲衣を賜り、駅の舟を与えて帰らせよ」と言い、まもなくまた敕を賜って褒め諭した。
  • 髙榖は職を退いてからは門を閉ざして賓客を絶ち、景泰・天順の間の事を問う者があっても答えなかった。天順四年(1460年)正月に卒した。年七十。
  • 髙榖は容儀が美しく倹素を楽しみ、地位は台司(宰輔)に至りながら、住まいは粗末な家、田は痩せた田があるだけであった。成化の初め、太保を贈られ、諡を文義とされた。