景泰帝の帝号を守る
- 尹直は字を正言といい、泰和の人。景泰五年(1454年)の進士で、庶吉士に改められ、編修に任じられた。
- 成化の初め、經筵講官を務め、『英宗實録』の編修に参加した。総裁が景泰帝の帝号を削ろうとして、漢の昌邑王や更始帝を引き合いに出したのに対し、尹直は次のように論じた。「實録の中では、はじめ大臣で後に軍民となった者について、在官のときは『某官某』と記し、罷免されて去ってからその呼称を改めます。漢府(漢王高煦)が謀逆によって庶人に落とされた例でも、まだ反かないうちは王と書き叔と書くのが従前どおりでした。どうして反くことを予測して先に庶人の号に落とす道理がありましょう。しかも昌邑王は立ってすぐ廃されましたが、景泰帝は宗廟社稷の主であること七年です。更始帝は誰から命を受けたわけでもありませんが、景泰帝は母后から策命を受けました。当時の危難のさなかに傾きを支えたのであって、帝がいなければ京師は国家のものではなくなっていました。儲君を替えたのは徳を失した行いですが、盧忠・徐振の言に惑わされず、ついに両宮を全うして今日に至らせました。その功と過は十分に釣り合います。帝号を削るべきではありません」。当時、これに反論できる者はいなかった。
- 實録が完成すると侍讀に進み、侍讀學士を歴任した。成化六年(1470年)、上疏して『大明通典』の纂修、あわせて『宋元綱目』の続成を請い、章は所司に下された。
- 成化十一年(1475年)、禮部右侍郎に遷り、辞退したが許されなかった。父の喪に遭い、服喪が明けると南京吏部右侍郎に起用され、その地で禮部左侍郎に改められた。
- 成化二十二年(1486年)春、召されて兵部を佐けた。占城王の古來が安南に逼られて国を捨てて援けを求めて来たとき、議者は送り返そうとしたが、尹直は「彼は窮して我に帰したのです。追い立てて帰国させれば、これを殺すも同然です。大臣を遣わして現地で事情を聞き、状況を量って処置すべきです」と述べ、詔してこれに従い、都御史の屠滽を遣わした。
- 貴州の鎮巡官が苗の蜂起を奏して出兵を請い、廷議はこれに従おうとしたが、尹直は「事端を起こして功を求めているのであって信用できません」と述べた。官を遣わして調べさせると、果たして警報はなかった。
- 同成化二十二年(1486年)九月、户部に改められ翰林學士を兼ねて内閣に入り、ひと月あまりして兵部尚書に進み、太子太保を加えられた。
尹旻との確執と致仕
- 尹直は明敏で博学、朝廷の典章に習熟していたが、進取に急で、性は驕り猜疑深く、自らを慎まなかった。吏部尚書の尹旻と仲が悪かった。
- 尹直がはじめ禮部侍郎の座を望んだとき、尹旻は他の人を推薦したが、尹直は中旨(帝の直命)でこれを得た。翌日、朝廷で尹旻に会うと笏を挙げて礼を述べた。尹旻は「公こそいわゆる『簡んで帝の心に在り』というものだ」と言い、これ以来、恨みはいっそう深まった。
- のち南部(南京)に八年在り、鬱々として志を得ず、その一党の萬安・彭華に内召を図らせたが、尹旻はそのつど不可と主張した。諸朝臣もみな尹直を畏れ、南京に留まっていてくれることを願った。兵部左右侍郎の推挙にあたって吏部が何琮ら八人を列挙し、詔して何琮を用いることになったが、尹直は萬安・彭華および李孜省の力による中旨で召還された。ここに至って恨みを晴らそうとし、李孜省らと結んで尹旻父子を陥れて罪を得させ、また江西巡撫の閔珪を罷免に追い込んだので、世論は騒然として不平を鳴らした。
- 刑部郎の袁清という者は萬安の私人で、しかも内侍の郭閏に気に入られていた。浙江で事を調べた際に諸大吏を踏みつけにしたので、吏部尚書の李裕はこれを憎み、帰任するとただちに紹興知府に除した。袁清は恐れて何度も上章して転任を求め、李裕がその罪を強く論じて詔獄に下した。萬安と郭閏は尹直に頼んで李孜省に言わせ、中旨を取って赦させ、鄖陽知府に改めた。
- 孝宗が立つと、進士の李文祥、御史の湯鼐・姜洪・繆樗、庶吉士の鄒智らが続けざまに尹直を弾劾した。給事中の宋琮および御史の許斌は「尹直は初めて侍郎となってから入閣に至るまで、縁故を頼って攀じ登り、いずれも中旨によるものだ」と述べた。帝はそこでその人となりを薄く見て、致仕させた。
- 𢎞治九年(1496年)、表を奉って万寿を賀し、あわせて太子が出閣すべき年齢になったとして『承華箴』を上呈し、先朝の少保黄淮の例を引いて召対を期待したが、帝はこれを却けた。正徳年間に卒し、諡を文和とされた。
史論
- 贊に言う。『易』は、君子を内にし小人を外にするのを泰、君子を外にし小人を内にするのを否とする。まして宰輔の任に就き百官が仰ぎ見る地位ならばなおさらである。陳循以下の人々は、大きな奸悪をなしたわけではないが、心の持ちようが厳酷で嫉み深く、もっぱら私意を通そうとし、自分に同ずる者とは親しみ、異なる者は忌んだ。親しめば互いに引き立て、忌めば互いに押しのけた。萬安・劉吉に至っては、側近の寵臣と結び、恥を忍んで地位に居座った。幸いに同僚に賢者が多く、互いに繕い正してくれたが、汚れた行跡はあらわであり、小人の類に帰することを、どうして覆い隠せようか。