明史卷一百六十八 列傳第五十六 劉珝

東宮の旧臣、講官第一

  • 劉珝は字を叔温といい、夀光の人。正統十三年(1448年)の進士で、庶吉士に改められ、編修に任じられた。天順年間に右中允を歴任し、東宮に侍講した。
  • 憲宗が即位すると東宮の旧僚としてたびたび遷って太常卿兼侍讀學士となり、經筵と日講に出仕した。
  • 成化十年(1474年)、吏部左侍郎に進み、講官はそのままであった。劉珝は進講のたびに繰り返し説き諭し、言葉つきが堂々としていて、聞く者は襟を正した。學士の劉定之は講官の第一と称え、憲宗もまた愛重した。
  • 翌成化十一年(1475年)、詔して本官のまま翰林學士を兼ねて入閣し機務に与った。帝はいつも「東劉先生」と呼び、「嘉猷贊翊」の四字を刻んだ印章を賜った。まもなく吏部尚書に進み、さらに太子少保・文淵閣大學士を加えられた。『文華大訓』が完成すると太子太保を加えられ、謹身殿大學士に進んだ。
  • 劉珝は性が率直で、東宮の旧臣であることを自負し、事に臨んで庇い立てをしなかった。員外郎の林俊が梁芳・繼曉を弾劾して獄に下されたとき、劉珝は帝の前で取りなした。李孜省らが邪法で政を乱し東宮を動揺させようとしたとき、劉珝はひそかに上疏して諫め、その謀はいくらか阻まれた。
  • 日ごろから萬安を軽んじ、かつて「萬安は国に背く恥知らずだ」と面罵したので、萬安は憤りを積み、日夜劉珝を陥れようと考えていた。

萬安・劉吉に追われる

  • はじめ商輅が汪直を弾劾したとき、劉珝は萬安・劉吉とともにこれを助け、争って西厰を廃止させた。のちに劉珝は朝廷で王越をやり込め、王越は恥じて退いた。やがて西厰が再設されたが、劉珝は何も諫争できなかった。
  • 成化十八年(1482年)、萬安は汪直の寵が衰えたのを見て西厰が廃止されると読み、劉珝を誘って連名で奏上しようとした。劉珝が断って加わらなかったので、萬安は単独で奏した。上疏を見た帝が劉珝の名がないのをいぶかったので、萬安はひそかに人を使って「劉珝は汪直と通じている」と告発させた。
  • 折しも劉珝の子の鎡が妓を招いて戯れ飲み、里の人である趙賓が戯れに「劉公子曲」を作った。ある者がこれに猥りな文句を付け足し、教坊の院本(芝居の台本)に混ぜて奏上した。帝は大いに怒り、劉珝を退ける決意を固め、中官の覃昌を遣わして萬安と劉吉を西角門に召し、帝が自ら封じた書状一通を示させた。萬安らは驚いたふりをして救おうとした。
  • 翌日、劉珝は上疏して休職を乞い、駅伝の使用を許され、月々の廩米、年々の隷卒、白金・楮幣がたいへん手厚く与えられた。しかし実は劉珝を排斥して去らせたのは萬安と劉吉の二人の謀であった。
  • 当時、内閣の三人のうち、萬安は貪欲狡猾、劉吉は陰険峻酷で、劉珝はいくらかましだったが、議論を好んだので人は狂躁と見ていた。劉珝が慌ただしく退いたあと、彭華と尹直が相次いで内閣に入り、萬安・劉吉の党はいっそう固くなった。
  • 劉珝ははじめ母の喪に遭ったとき墓の傍らに三年廬した。帰ってからは父に仕えて孝を尽くし、父が没するとまた墓に廬した。𢎞治三年(1490年)に卒し、諡を文和とされた。嘉靖の初め、言官の請いにより「昭賢」の祠額を賜り、あわせて官を遣わして祭らせた。

劉鈗――八歳の中書舎人

  • 子の鈗は字を汝中という。八歳のとき憲宗に召見され、聡明で、しかも拝礼と起立が作法どおりであったのを愛でられ、ただちに中書舍人に任じられた。宮殿の門の敷居が高かったので、同官の楊一清がいつも抱えて出入りさせた。帝は牙牌が壊れやすいことを気遣い、銀に替えさせた。
  • 官にあること五十餘年、嘉靖年間には太常卿兼五經博士に至り、なお内閣の誥敕房で勤務した。博学で行いが正しく、長洲の劉棨とともに故事に通じ、当時「二劉」と称された。