明史卷一百六十八 列傳第五十六 陳文

雲南の治績から入閣まで

  • 陳文は字を安簡といい、廬陵の人。郷試に首席で及第し、正統元年(1436年)の進士に及第して編修に任じられた。正統十二年(1447年)、東閣で学問を進めるよう命じられ、年限が満ちて侍講に遷った。
  • 景泰二年(1451年)、閣臣の高榖が陳文の才を推薦したので、雲南右布政使に抜擢された。貴州が連年の用兵で、雲南の民は軍糧の輸送に苦しんでいたが、陳文は商賈に代わって輸送させ、民にはその費用を倍にして償わせたので、みな便利とした。
  • 税課の額は鈔七十餘萬で、吏の俸禄がここから支給されていたが、掌る者が横領するので、吏は何年も俸を得られないことがあった。陳文はことごとく取り調べて処罰し、税収は日ごとに余るようになった。
  • 雲南は銀を産し、民間では銀で取引をしていたが、内地の三倍の値であった。官に属する隷卒が役を免ぜられて銀を納める場合も三倍で、納める者は苦にしなかった。陳文は「そうはいっても清廉を損なわぬだろうか」と言って減額し、さらに隷卒の定員を三分の一減らすよう命じた。こうして名声が日に日に高まり、廣東左布政使に遷ったが、母の喪で赴任しなかった。
  • 英宗が復位してのち、ある日左右に「以前わしに侍していた編修で、色白の背の高い者はどこにいる」と尋ね、左右が陳文だと答えたので、ただちに召して詹事とした。陳文は喪を全うしたいと乞うたが許されず、東宮に入侍して講読にあたった。
  • 學士の吕原が卒したとき、帝が李賢に誰が代われるかと問い、李賢は「柯潛がよろしい」と答えた。退出して王翺に告げると、王翺は「陳文が順序では次に当たる。どうしてこれを抑えるのか」と言った。翌日、李賢は参内して王翺の言のとおりに述べた。
  • 天順七年(1463年)二月、禮部右侍郎兼學士に進んで内閣に入った。陳文は入閣すると、しばしば李賢に逆らって自分を際立たせ、「わしはお前に推薦されたのではない」と言った。

王綸・錢溥の事件と晩年

  • 侍讀學士の錢溥は陳文と隣り合って住み、交わりがたいへん親密であった。錢溥はかつて内侍に書を教え、その門下には貴顕の者が多く、挨拶に来ると必ず陳文を招いてともに飲んだ。
  • 英宗が危篤になったとき、東宮の内侍である王綸がひそかに錢溥のもとを訪れて事を計り、陳文を呼ばなかった。陳文はひそかに様子を窺った。王綸が「帝は不予である。東宮が妃を納れるのはどうか」と言うと、錢溥は「遺詔を奉じて事を行うべきだ」と言った。
  • やがて英宗が崩じ、李賢が詔を起草しようとすると、陳文は立ち上がってその筆を奪い、「いらぬ。すでに草を作った者がいる」と言った。そのうえで、王綸と錢溥が「李賢を追い出して錢溥を代わりに据え、兵部侍郎の韓雍を尚書の馬昻の代わりにする」と謀っていることを告げた。李賢は怒ってこの事を暴いた。
  • このとき憲宗が即位したばかりで、王綸は自分が司禮監を得られると思い、意気軒昂であった。英宗の大殮のとき、王綸は喪服の上に貂を着けたので、帝はこれを見て憎んだ。太監の牛玉は王綸に押しのけられるのを恐れ、その罪を数え上げて追い出した。
  • 錢溥は順徳知縣に、韓雍は浙江參政に落とされた。供述に連座した順天府尹の王福、通政參議の趙昻、南寧伯の毛榮、都督の馬良・馮宗・劉聚、錦衣都指揮僉事の門逹らはみな左遷された。韓雍もまた陳文がふだんから快く思わない相手であった。
  • 陳文は吏部左侍郎に改められ、經筵の事を同知した。成化元年(1465年)、禮部尚書に進んだ。
  • 羅倫が李賢の奪情(喪中の留任)を論じたとき、陳文は内心恥じつつも、ひそかに李賢を助けて羅倫を追い出したので、いっそう時論に卑しまれた。
  • 成化三年(1467年)春、帝は户部尚書の馬昻、副都御史の林聰および給事中の潘禮・陳越に京營を整理させた。陳文は「必ず内臣を得てともに事にあたらせなければ、積年の弊は除けません」と奏し、太監の懷恩を推薦して、帝はこれに従った。
  • 『英宗實録』が完成すると太子少保兼文淵閣大學士を加えられた。成化四年(1468年)に卒し、少傅を贈られ、諡を莊靖とされた。
  • 陳文はもとより才をもって自負し、地方官としてはかなりの実績を挙げたので、士大夫の多くはその登用を期待した。ところが東宮の輔導の任に就くと行いは卑しく、大政に参与しても建設的なところがなかった。朝廷から退けば賓客や旧友を引き入れて酒宴を張り、もっぱら請託にいそしんだ。性は短気で、些細な恨みでも必ず報いた。李賢が卒すると陳文はいっそう恣意に振る舞い、名節は大いに損なわれた。死後、禮部主事の陸淵之と御史の謝文祥がいずれも上疏して「陳文に美諡を与えるべきではない」と論じたが、帝はすでに実施済みだとして許さなかった。