科挙と入閣
- 曹鼐は字を萬鍾といい、寧晋の人。若くして気性が強く率直で大志があり、継母によく仕えて孝行で知られた。
- 宣徳の初め、郷試の合格者として代州訓導に任じられたが、別の職を願い出て太和縣典史に改められた。
- 宣徳七年(1432年)、工匠を監督して京師に至った際、上疏して受験を願い出、ふたたび順天の郷試に及第した。翌宣徳八年(1433年)、進士一甲第一(状元)に及第した。礼部で宴を賜ったが、進士が礼部で宴を受けるのは曹鼐に始まる。翰林に入って修撰となった。
- 正統元年(1436年)、經筵講官を務めた。『宣宗實録』が完成すると侍講に進み、三品の章服を賜った。
- 正統五年(1440年)、楊榮・楊士奇の推薦で文淵閣に入直し、機務に参預した。曹鼐は人となりが内は剛く外は和やかで、政治の要諦に通じていた。楊榮が没し、楊士奇はしばしば病で職務を執らなかったので、閣務の多くは曹鼐が裁決した。帝は賢者として翰林學士に進めた。
- 正統十年(1445年)、吏部左侍郎兼學士に進んだ。
土木の変での死
- 正統十四年(1449年)七月、額森が侵入した。中官の王振が帝を担いで親征させようとし、朝臣が続けざまに諫めたが聴かれなかった。曹鼐は張益とともに閣臣として扈従した。
- 大同に着かないうちに士卒はすでに糧を欠き、宋瑛・朱冕の軍は全滅していた。諸臣が撤退を請うたが王振は許さず、諸軍に進撃を促した。大將の朱勇は膝行して命を聴き、尚書の鄺埜・王佐は草むらに跪いて日暮れまで願い出たが容れられなかった。欽天監正の彭徳清が「天象が警告を示している。前進すれば乗輿(帝の身)が危うい」と言うと、王振は罵って「お前に何が分かる。仮にそうなったとしても、それも天命だ」と言った。曹鼐は「臣下の身は惜しむに足りませんが、主上は天下の安危に関わります。軽々しく進んでよいものですか」と言ったが、王振はついに従わなかった。
- 先鋒の敗報が次々に届くとようやく王振も恐れ、引き返そうとした。定襄侯の郭登が曹鼐・張益に「ここから紫荆闗へ向かえばわずか四十餘里です。御駕は紫荆から入るべきです」と告げたが、王振は帝を蔚州へ迎えて自分の邸宅へ行幸させようとしたので聴き入れられず、逆に東へ折れて居庸闗へ向かった。
- 八月辛酉、土木に宿営した。土地が高く二丈掘っても水に届かない。衞拉特の大軍が到着して南の河を押さえ、翌日わざと退くふりをし、あわせて使者を送って和を通じてきた。帝は曹鼐を召して返答の詔を起草させた。ところが王振はにわかに営を移して水辺へ寄れと命じ、行軍が乱れたところへ寇の騎兵が陣を蹂躙して突入した。帝は囲みを突いたが脱け出せず、寇に擁されて連れ去られ、曹鼐・張益らはみな難に遭った。
- 景帝が立つと、曹鼐に少傅・吏部尚書・文淵閣大學士を贈り、諡を文襄とし、その子の恩を大理評事に任じた。英宗が復位すると太傅を加贈し、諡を文忠と改め、その孫の榮を錦衣百户に任じた。曹鼐の弟の鼎は進士で、吏科都給事中を歴任した。
張益――曹鼐と同時に難に遭う
- 張益は字を士謙といい、江寧の人。永樂十三年(1415年)の進士。庶吉士から中書舍人に任じられ、大理評事に改められた。『宣宗實録』の編修に参加し、完成すると修撰に改められた。博学で記憶力が強く、詩文は筆を執ればたちどころに成り、三楊(楊士奇・楊榮・楊溥)が重んじた。まもなく侍讀學士に進んだ。
- 正統十四年(1449年)、文淵閣に入ったが、三か月と経たず難に遭って没した。景帝が立つと學士を贈り、諡を文僖とした。曾孫の琮は進士で、嘉靖の初めに南京右都御史を歴任した。