明史卷一百六十六 列傳第五十四 張祐

両広の平定と思田の副総兵

  • 張祐は字を天祐といい、廣州の人。幼くして学を好み文をよくした。𢎞治年間に世職を襲って廣州右衛指揮使となり、十九歳で總督潘蕃に従い南海の寇禢元祖を討ち、先陣を切って功があった。
  • 正徳二年(1507年)、署都指揮僉事に抜擢され徳慶の守備にあたった。瀧水の猺・獞で険阻を頼む者たちは、その威信を聞いて次第に去った。總督林廷選は張祐を中軍に引き、大小となく相談した。
  • 惠州・潮州の守備にあたっては、盗賊の首魁劉文安・李通寳の巣を衝いて平らげた。廣西右㕘将に遷って栁州・慶逺の分守となり、總督陳金が府江の賊を討った際、張祐は沈沙口へ進んで大いに破り、俸を一等増された。副總兵に抜擢されて廣西に鎮守し、まもなく署都督僉事に進んだ。
  • 古田の諸猺・獞が乱を起こしたとき、張祐は「先年の征討はおおむね両江の土兵に頼ったが、賞が労に見合わなかった。いま徴発しても期日に遅れがちである。手厚い賞を議定してほしい」と言上し、容れられた。都指揮沈希儀らを督して臨桂・灌陽の諸猺を討ち、斬首五百餘級、璽書を賜って労をねぎらわれた。さらに古田の賊を続けて破り、四千七百を捕らえ斬って署都督同知に進み、のち洛容・肇慶・平樂の諸蠻を討ち平らげ、俸を一等増され、子に世襲の百户を蔭された。
  • 嘉靖改元(1522年)、母の喪に遭い、悲しみのあまり骨と皮ばかりになった。まもなく病を理由に休職を請い衛に帰った。
  • これより先、上思州の土目黄鏐が乱を起こしたとき、張祐はその一党の黄廷寳を買収して縛って差し出させた。總督張嵿は自分に断りがなかったことを憎み、張祐が奸心を抱いて難を避けたと弾劾したので、逮えられて徳慶の獄につながれた。たびたび上書して冤を訴え、釈放されて閒住を命じられた。
  • 盧蘇・王受が田州で乱を起こすと、總督姚鏌は張祐を軍中に召して賓客の礼で遇し、多くの助言を得た。のち王守仁が姚鏌に代わって撫と剿のいずれがよいかを尋ねると、張祐は「夷をもって夷を治めれば、兵を煩わさずに下せます」と答え、王守仁はこれを容れた。盧蘇・王受は果たして帰順し、そこで張祐に彼らの衆を部署させた。事が収まると王守仁は「思恩・田州が平定されたばかりなので副總兵を一人置いて鎮すべきだ」と言上し、張祐を充てるよう請うて可とされた。
  • 封川の賊盤古子を破り、また廣東の會寧の強賊邱區長らを討って斬首一千二百、大隆山に銘を刻んだ。
  • 嘉靖十一年(1532年)、楊春の賊趙林花が髙州を陥れ、總督陶諧が檄して張祐に討たせた。深く攻め入って多くを斬獲したが、にわかに重病にかかって軍中で卒した。人々は哀しみ慟いた。
  • 張祐は身の丈八尺、識見は人並み外れ、軍を御するのに節制があり、部下と苦楽を共にし、私財を蓄えなかった。生来書を好んで常に持ち歩き、軍務の暇には儒生を招いて講論した。かつて烏蠻灘を通って馬伏波(馬援)の祠に詣で、「死んで祠に祀られぬようでは男子ではない」と嘆息し、詩を題して去った。のち田州の人は横山に祠を立てて彼を祀った。

史論

  • 贊に言う。苖蠻は険阻を頼んで自ら固め、動きやすく服しにくいのは、もとよりその性である。だが草を薙ぐように獣を狩るように濫りに殺して功を求め、賄賂を貪って事端を起こし、統御の仕方を誤って懐柔の策を持たないのは、鎮将の過ちである。韓觀ら数人は功が最も際立ち、いずれも威信をもって蠻荒を震え上がらせた。山雲・王信・張祐のように清廉倹素で節を守った者に至っては、士君子といえどもこれに勝るものではなく、それゆえいっそう尊ぶべきである。