明史卷一百六十六 列傳第五十四 歐磐

広西の㕘将から湖廣鎮守へ

  • 歐磐は滁の人。世職の指揮使を襲い、成化年間に廣東都指揮僉事に抜擢され、たびたび蠻の寇を討って功があった。總督朱英の推薦により廣西右㕘将となり、栁州・慶逺の分守にあたった。
  • 左㕘将馬義とともに融縣の八砦の猺を討って落としたが、軍が引き揚げたあと残賊がまた出て掠めたので弾劾された。帝は歐磐らの功を認めず、ただ殉職者の家を恤するにとどめた。
  • 猺賊の方公強が乱を起こしたとき、兵部は總鎮中官の顧恒を弾劾し、あわせて歐磐にも及んで、常謫として戍に配することとした。しかし督撫が「歐磐の守る地はもともと猺・獞が出没する所であり、歐磐は決死の士を募って夜に賊の巣へ入りその首領胡公返を斬って威を諸蠻に震わせた。功を論じて罪を贖わせるべきだ」と奏したので、帝は宥して旧任に戻した。
  • 成化二十三年(1487年)、鬱林・陸川の賊黄公定・胡公明らが乱を起こし、歐磐は按察使陶魯らとともに五道に分かれて攻め破り、都指揮同知に進んだ。
  • 𢎞治の初め、病を理由に職を解いたが、總督の綋(朱英の後任)が「歐磐は戦陣を多く経ており、才もあり守りもある」と言上して起用を請い、詔して旧任に戻された。
  • 𢎞治八年(1495年)、府江・永安の諸獞が乱を起こし、總督閔珪が兵六萬を調発して四哨に分けて討たせた。歐磐は象州・修仁からまっすぐ陸峒を衝き、向かうところを打ち破り、さらに諸軍とともに山砦一百八十を続けて破り、斬首六千餘。都指揮使に進み、廣西副總兵に遷った。
  • 思恩の土官岑濬が丹良荘に石城を築き、江を遮って商人の利を掠め取った。帥府が毀すよう命じても従わないので、歐磐は田州から戻って兵を督し城を毀そうとした。岑濬が衆を率いて拒んだが、これを敗り、ついにその城を平らげた。都御史鄧廷瓚らが歐磐の功の多さを朝廷に言上し、都督僉事に進んだ。
  • 𢎞治十五年(1502年)、平蠻将軍の印を佩びて湖廣に鎮守するよう命じられた。歐磐は将として清廉有能で士心を得、長く南方に鎮して蠻人は畏服した。𢎞治十八年(1505年)に致仕を請い、その二年後(正徳二年、1507年)に卒した。祭葬は制度どおりであった。