明史卷一百六十六 列傳第五十四 彭倫

貴州清浪の守備

  • 彭倫は初めの職が湖廣永定衛指揮使で、功を積んで都指揮同知に至った。成化の初め、趙輔に従って大藤峽の賊を平らげ、都指揮使に進んで貴州の清浪ほか各所の守備にあたり、茅坪・銅鼓の叛いた苖を討ち破った。
  • 賊が乾溪を掠めたので彭倫が討つと、賊は掠った物を返し、盟を結んで退いた。彭倫は、賊が侵入した際に通り道の卭水ほか諸砦がすぐに迎え撃たなかったことから、賊が入境したとき生け捕りにした者には重賞を与え、見逃した者は法に照らして処罰する、と令を下した。これにより諸司はそれぞれ管下に約束させ、生苖が紛れ込めばすぐ捕らえて彭倫の帳下へ送る者が引きも切らなくなった。
  • 彭倫は麾下の目把(土着の頭目)を大いに集め、捕虜を縛って高い竿に架け、屈強の兵を集めて乱射して殺し、さらにその肢体を割いて壮士たちに煮て食わせた。罪の軽い者は耳と鼻を切って帰し、「これを目印にせよ。再び犯せば赦さぬ」と言った。そのうえで諸砦に牌を立てて境界とさせたので、諸苖は震え上がって犯そうとしなくなった。
  • 翌年、右㕘将として引き続き清浪に鎮し、いよいよ辺境の計に心を尽くし、軍事はことごとく整った。妖賊の石全州がひそかに絞洞へ入って古州の苖を煽動し、洪江・甘篆の諸苖もみな呼応したが、彭倫は兵を遣わして遮って捕らえ、あわせてその妻子も捜し出した。諸苖が鎮逺を攻めようとすると、彭倫は大いに破り、斬った者と崖から落ちて死んだ者は数知れなかった。
  • 間もなく卭水の十四砦の苖が洪江の生苖を糾合して叛いた。彭倫は五哨に分けて向かわせたが、出発早々に雨が土砂降りとなった。彭倫は「賊は我らが来るとは思うまい。急ぎ進めば志を得られる」と言い、競って進んで挟み撃ちにし、首魁を縛り、残党を捕らえ斬って、賊はことごとく平らいだ。
  • 靖州の苖が乱を起こしたとき、湖廣總兵官の李震が檄を飛ばして彭倫に合流させた。軍が卭水江に至ると、諸熟苖が驚いて逃げようとした。彭倫は僉事の李晃と議して「苖が逃げれば必ず賊を助ける」と言い、急ぎ撫して落ち着かせ、また道すがら天堂・小坪の諸苖を降した。靖州に着くと彭倫は右哨を率いて賊の背後に出て陣を布き、賊は逃げて高い山に拠ったが、彭倫の軍が仰ぎ攻めて敗走させ、そのまま江を渡って巣を衝き大いに獲た。
  • 勝ちに乗じて白崖塘を攻めた。崖は高さ萬仞、下は深い淵に臨む絶険とされていたが、彭倫は左哨と合わせて進み、間道を見つけて夜に登ったので、賊は慌てふためいて潰え、追撃して二千餘級を斬り、同数を捕獲し、その砦をことごとく平らげた。
  • はじめ臻剖六洞の苖は熟苖の田を侵し、賦を納めず、駅馬も供出せず、有司は問い糺す者がなかった。彭倫が人を遣わして諭すと、頓首して制度どおりにすると願い出た。功を録して都督僉事に進んだ。
  • 久しくして御史鄧庠・員外郎費瑄が事を調べ、貴州總兵官呉經らはみな弾劾されたが、彭倫だけは智謀老成として推薦された。𢎞治年間、呉經が論罪されて罷免されると、彭倫がその後任となった。彭倫は兵を用いるにあたり、まず計を立ててのちに戦ったので、功が多かった。四年、老齢により致仕し、卒すると制度どおりの恤典が与えられた。