郕王の廟号を請う
- 髙瑶は字を庭堅といい、閩縣の人である。郷挙から荊門州學の訓導となった。成化三年(1467年)五月、疏を上げて十事を陳べた。
- その第一に言う。正統己巳の変(1449年)で先帝は北狩され、陛下はまだ東宫におられ、宗社は髪一筋の危うさであった。もし郕王が統を継いで国に年長の君がなかったら、禍乱はどうして平らぎ、鑾輿はどうして戻ったであろうか。六、七年のあいだ海内は安らかに静まり、民は生業を楽しんだ。その功は小さくない。
- ところが先帝の復辟に至って、天の功を貪る者がひどい誣告を加え、終わりの節を正しくさせなかった。恩恵を与えて祀りに列することが、いまだ典礼にかなっていない。どうか特に礼官に敕して集議させ、廟号を追贈し、親を親しむ恩を尽くされたい、と。
- 章は廷議に下されたが久しく決せず、十二月になってようやく「廟号を追崇することは臣下が勝手に議し得るものではない。ひとえに陛下のご裁決による」と奏した。
- ところが左庶子の黎淳が力争して、復すべきでないとし、さらに「瑶のこの言には死罪が二つある。一つは先帝を不明であったと誣ること、一つは陛下を不孝に陥れることである。臣が思うに、瑶のこの挙は郕王を尊ぼうというのではなく、もっぱら群邪が登用される足がかりとするためで、必ずこれを操る小人がいる」と言った。
- 帝は「景泰の以前の過ちは朕は気にかけたことがない。臣子が言うべきことか。淳がこの奏をしたのは、諂って恩を求めようとするものか」と言った。議はそのまま止んだ。しかし帝は結局は瑶の言に感じ入り、久しくして郕王の帝号を復した。
番禺知縣と晩年
- 瑶はのちに番禺縣の知事となり、優れた政治が多かった。中官の韋眷が番人と密貿易していた事を摘発し、その資財数万を官に没収した。眷はひどく恨み、朝廷に誣告した。瑶と布政使の陳選はともに逮捕され、泣いて見送る士民が道を塞いだ。瑶は結局、永州の戍に流され、釈放されて帰り、卒した。
- 黎淳は華容の人である。天順元年(1457年)の進士第一で、官は南京禮部尚書に至り、かなり名声があった。だが瑶と郕王の廟号を争ったのは、もっぱら憲宗の意に阿ろうとしてのことで、昌邑王や更始帝を景帝になぞらえるに至ったので、士論に軽んじられた。
- 成化の時は言路が大いに塞がり、給事中や御史の多くが譴責を受けたが、瑶だけは低い官でありながら危うい議を立てて、ついに罪を受けなかった。当時の人はみな帝の盛徳と称えたという。
附・虎臣
- また虎臣という者がある。麟遊の人で、成化年間に貢生として太學に入り、天下の士大夫は先聖の廟の前を通るときは輿馬を降りるべきだと上言して、容れられた。
- 親を省みるため帰郷したところ、陝西が大飢饉となり、巡撫の鄭時がまさに賑済を請おうとしていたので、臣がその奏を携えて赴き、飢饉の状況を陳べた。言葉が激切であったので、大いに賑貸を獲得した。
- ついで上言して、郷里が近年災害続きで人が人を食うのは、長吏が貪欲残虐で賦役が公平を欠くからであるとし、有司に敕して民戸を審査し三等に編して科徭を定められたいと請い、容れられた。
- 孝宗が位に即くと、萬歳山に棕櫚葺きの棚を建てて眺望に備えようとした。臣が疏を上げて切諫すると、祭酒の費誾は禍が及ぶのを恐れて臣を鎖につないで堂前の樹の下に縛った。まもなく官校が臣を左順門に呼び出し、㫖を伝えて「そなたの言は正しい。棕棚はもう壊した」と慰め諭した。誾は大いに恥じ入った。
- 臣の名は都下に知れ渡り、ほどなく七品の官を授けるよう命じられ、雲南□(底本欠字)嘉知縣とされ、官にあって卒した。
史論
- 贊にいう。明は太祖が基を開いて以来、広く言路を開き、内外の臣僚が意見を述べるのに職掌にこだわらせず、在野の微賤な者の奏章もみな上聞できた。宣宗・英宗の頃までその気風は衰えず、泰平が久しく続いて宮廷の敷居が高くなってからも、儒生や布衣、文書掾吏、門番の下級吏、戈を担ぐ戍卒までが、朝に封事を陳べれば夕には帝の門に達した。採用された者は身を顕し、却下された者も罪には問われなかった。
- 仁宗が弋謙の朝参を復し、咎を引いて自ら責めたごときは、たとえ鞀を懸け鐸を設けて諫めを求めたとしても、これに何を加えられよう。これをもって招いたのだから、激昂して憤りを発する者が腕を扼して世務を論じたのも当然である。
- 英宗・景帝の頃のことは実録の載せるところ書き尽くせないので、今その著しいものを拾ってこの篇に列した。憲宗の末年に至って宦官が朝政を専らにし、情勢がたびたび変わることについては、別に巻を立ててあるので、そちらで調べられる。