明史卷一百六十四 列傳第五十二 張昭

西洋への遣使を諫める

  • 張昭はどこの人か分からない。天順初(1457年)、忠義前衛の吏であった。英宗が復辟してわずか数か月、都指揮の馬雲らを西洋に遣わそうとしたが、廷臣は誰も諫めなかった。
  • 昭はこれを聞いて上疏し、次のように言った。内を安んじ民を救うのは国家の急務であり、外を慕って遠方に力を尽くすのは朝廷の末策である。漢の光武帝は関を閉ざして西域を謝絶し、唐の太宗は康国の内附を受けなかった。いずれも根本の計を深く知る者である。
  • 今、畿内と山東は年を重ねて凶作が続き、小民は食が絶えて逃げ散り、妻子は衣が体を覆わず、莚をかぶり席にくるまり、子女を売ろうにも買い手がない。家族はまとまりを失い、溝や谷に転がって死に、埋葬も済まぬうちに切り売りされている。これこそ痛哭すべきことである。
  • どうか陛下は蕃と和する費用に府庫の財を加え、急ぎ使者を遣わして賑恤されたい。そうすれば飢民を救えよう、と。
  • 奏は公卿の広い議に下され、雲らはすでに派遣を取り止めたので、買い付けた物は記録しておいて命を待つべきだとされた。帝はしばらく取りやめるよう命じた。

附・賀煬

  • 天順三年(1459年)秋、建安の老人・賀煬もまた上書して時事を論じた。
  • 今、銓選で授けられる県令には年老いた監生が多く、九年の任期が満ちる頃には七十近くになり、苟且で貪汚である。年若く才能のある者を択ぶべきである。その下僚および山林に徳を抱く士も推挙すべきである。
  • 景泰朝には先賢の顔氏・孟氏・程氏・朱氏の子孫を登録して翰林博士を授け、祀りを奉じさせたが、官はあっても禄がない。頒給して儒を崇ぶ意を明らかにすべきである。
  • 黄幹・劉爚・蔡沈・真德秀を朱子に配祠したのも景泰年間に僉事の吕昌の請いに従ったものだが、祝辞にはまだ入っていない。増補すべきである。
  • 預備義倉はもともと貧民を賑わすためのものだが、豪猾の輩が偽って支給を受け返済しないので、倉が空になっている。粟を出した義民に村内の飢民を書き出させ、有司とともに配らせるよう命じられたい。
  • ほどなくまた次のように言った。朝廷が学を建て師を置くのは士類を陶冶するためであるのに、師儒に学を積んだ者は少ない。在野の小人物が要路に取り入り、初学の書を解しただけで推薦の列に加わる。学官の職を受けても、卑俗で貪欲、あれこれと要求するばかりで、業を授け惑いを解くことについては一言も述べられない。生徒もまた往々にして歳月を無駄にし、都で挑み立ち回り、順番と年功で濫りに太學に昇り、しだいに老いて僥倖に官を得ても、身と家の算段に汲々とするだけで功名の念はない。今のうちに選抜を厳しくしなければ、人材は日ごとに劣り、士の風習は日ごとに悪くなる、と。
  • 帝はその言をよしとし、所管の役所に下して実行させた。