明史卷一百六十四 列傳第五十二 單宇

出自と中官監軍への論難

  • 單宇は字を時泰といい、臨川の人である。正統四年(1439年)の進士で、嵊縣知縣に任じられた。吏を厳しく御したので、吏が宇を誣告しようとした。宇はこれを報告したが、吏の上奏と併せて上げなかったとして逮捕され下獄した。事が明らかになって諸暨に移った。
  • 喪に遭い、服喪を終えて京師で銓選を待っていたところ、ちょうど英宗が北狩となった。宇は中官が軍を監督したため諸将が進退を自ら決められず敗軍を招いたことに憤り、疏してこれをすべて廃し将権を重くするよう請うた。景帝は納れなかった。

佛教への論難

  • はじめ王振は佛に諂い、帝に年一度の得度を請うた。その修めた大興隆寺は日々一万人を役し、国庫数十万を費やして、壮麗さは京都随一であった。英宗は「第一叢林」の号を賜り、僧に大々的に佛事を行わせ、自ら臨幸したので、釈教はいよいよ盛んになった。
  • ここに至って宇は上書して次のように言った。前代の君主は佛氏を尊奉して結局は禍乱を招いた。近ごろは男女の出家が百千万を数え、耕さず織らずに民間を食い荒らしている。寺院の造営は京邑に満ち、費用は数え切れない。どうか木石を撤して軍営を建て、銅鉄を鎔かして武器を鋳、僧尼を罷めて民俗に帰されたい。そうすれば皇風は清く穆やかとなり、異教は行われなくなる、と。
  • 疏は入ったが廷議に阻まれた。あらためて侯官の知事となった。

附・姚顯

  • 咸陽の姚顯は郷挙から國學に入り、これも上言して次のように言った。先に大興隆寺を修治して壮麗を極め、また僧の楊某を上師に奉じたが、その儀仗と供は王者に等しく、膏粱を食い組繡を着て、万乗を弟子のように侮っている。今、上皇は賊の陣中に留められている。彼を衛拉特に赴かせ額森を諭させられたい。まことに車駕を奉じて南に還すことができれば、護国の力を見せたことになる。できなければ、佛が信ずるに足りぬことは明々白々である、と。
  • 景泰の時、廷臣で佛に仕えることを諫めた者はきわめて多かったが、帝は結局従うことができなかった。中官の興安が最も権勢をふるい、佛への諂いは王振以上であった。帝に大隆福寺の建立を請い、その壮厳さは興隆寺に並んだ。景泰四年(1453年)三月に寺が成り、帝は日を定めて臨幸しようとしたが、河東鹽運判官で濟寧の人の楊浩が切諫したので取り止めた。

晩年と附伝の顛末

  • 宇は学を好み文名があり、三たび県を治めていずれも慈恵で聞こえた。侯官に居ること久しくして卒した。
  • 顯はのちに齊東知縣となり武城に移った。公平廉潔で剛正であり、巡撫の翁世資の推薦により太僕丞に抜擢された。
  • 浩ははじめ郷挙で國學に入り、官に任じられてまだ赴任していないうちにこの抗疏をしたので、評判が高くなった。累進して右副都御史となり延綏を巡撫した。