明史卷一百六十四 列傳第五十二 左鼎
字は周噐、永新の人である左鼎。正統七年の進士で、翌年に御史へ選補され、山西を巡按して税糧の免除を請い、額森の和議には断固反対した。景泰四年には軍政の不振と京官・外官の冗員を論じ、さらに財政の弊を挙げて大臣の糾弾にも加わった。章奏を書くのが巧みで、「左鼎の手、練綱の口」と並び称され、公卿以下に憚られた。英宗の復位後に召されて左僉都御史となり、一年余りで卒した。
出自と御史としての初め
- 左鼎は字を周噐といい、永新の人である。正統七年(1442年)の進士。翌正統八年(1443年)、都御史の王文が御史の欠員が多いことから、吏部と合議して進士から選補することを請い、帝は従った。尚書の王直が鼎および白圭ら十余人を試験して刑名に通じていると認め、みな御史を授かった。鼎は南京に配されたが、ほどなく北に改まり、山西を巡按した。
- 当時、英宗は北狩となり、兵乱と飢饉が重なっていたので、太原諸府の税糧の免除と、大同への輸送人夫の停止を請うて困窮を和らげた。額森が和を請うたときには、断固として不可を主張した。
- ほどなく山東・河南が飢饉となったので鼎が巡視に遣わされ、民はこれによって安んじた。
- 律では、官吏が故意に取り調べて無辜の人を死に致した場合は罪に当たるとされていたが、当時は給事中の于泰の言によっていずれも寛大に許されていた。鼎は「小民は無知だから情によって許してもよいが、官吏が法文を厳しく解して巧みに罪に陥れるのは、故殺と何が違うのか。法は天下の公器であり、意のままに軽重してはならぬ」と言った。以後は律のとおりに論じられた。
景泰四年(1453年)の上疏
- 景泰四年(1453年)、疏を上げて次のように言った。衛拉特の変が起きたとき、将士は役に立たなかった。これは軍政が立っていないからで、必ず前の弊を痛烈に懲らすはずであった。それから今また五年になる。貂蟬の冠が座に満ちているのはすべて公侯であり、鞍馬が道を塞いでいるのはすべて将帥である。民の財は年ごとに減り、国庫は日に日に空になる。これほど広い天下、これほど多い土地と兵甲をもちながら、威武を振るうことができないのは、軍政がなお立っていないからである。
- 昔、太祖が律令を定め、太宗の代に一時、罪ある者の贖罪を許したのは、あくまで臨時の措置であった。ところが法吏がそれに固執して先例としたので、官吏が枉法の財を受け取ってもみな減罪して贖える。これほど締まりがなくては、何を憚ろうか。
- 国初、官を置くのに定めがあった。近ごろは事に応じて増設し、主事は一司につき二人であったのが、今は十人に増えた所がある。御史は六十人であったのが、今は百余人である。はなはだしきは一部に尚書が二人あり、侍郎も常の定員の倍、都御史は数十を数える。これが京官の冗員である。外では撫民官・管屯官を増設し、たとえば河南の參議は一、二人であったのが四人となり、僉事は三人増えて七人となった。これが外官の冗員である。
- 天下の布政司・按察司の二司はそれぞれ十余人いるのに、毎年御史を遣わして巡視させ、さらに大臣を遣わして巡撫・鎮守させている。今の巡撫・鎮守はかつての方面の御史である。方面の御史であれば大勢の長所を合わせても足りず、巡撫・鎮守であれば一人の知恵に任せて有り余るとは、そんな道理があろうか。
- 御史の遷転もあまりに急である。六年を基準として政事に通達させ、その後で人を治めさせるべきである。巡按の職責はとりわけ重いので、初任の者に漫然と試させてはならない。その他の百官もみな慎重に択んで長く任ずべきである。
- 帝はかなり嘉納した。
財政と大臣糾弾
- ほどなくまた次のように言った。国家は数十年の泰平を経ながら公私の蓄えは満ちていない。ひとたび軍事が起これば、割り当てを押しつけ横暴に徴収し、官を売り爵を商うなど、そろって衰世の姑息な政を行う。これは国の財政を司る者の過ちである。
- 臣は次のことを請う。末技を強く抑え、遊惰を厳禁し、異端を斥けて田畝に帰らせること。冗員を減らして無駄な支出を省くこと。屯田を開いて辺境を実らせること。兵員を精査して糧の負担を緩めること。寺観の造営、供仏や僧への施食、および急を要さぬ工事と無益の費用はすべて停止すること。もっぱら農を務め粟を重んずることを本とし、自ら節倹を行って天下に率先すること。そうしてはじめて民を豊かにし国を裕かにできる。
- もしこれを軽んじて務めず、搾り取り集めるだけの臣を用いて朝三暮四の術を行い、民力がすでに尽きているのに徴発をやめず、民財がすでに涸れているのに賦斂を日々増やし、目前の急をしのぐばかりで意外の憂いを顧みないなら、臣はひそかに恐れる、と。
- 章は戸部に下され、尚書の金濂が辞職を請うたが、帝は許さなかった。鼎の言もすべては実行されなかった。
- 一月余り後、災異にかこつけて同僚とともに弊を救い民をいたわる七事を陳べ、末尾に「大臣にも奸邪がいないわけではない。とりわけひどい者を罷免して政の本を清めるべきである」と述べた。帝はその言をよしとし、詔を下して人物を選別させ、辞職を願い出た大臣はいずれも慰留した。
- 給事中の林聰が、鼎らに事実を明示して弾劾させるよう請うたので、鼎と聰らは共同で、吏部尚書の何文淵、刑部尚書の俞士悅、工部侍郎の張敏、通政使の李錫の職務怠慢の状を申し立てた。錫は罷免され、文淵は致仕した。
名声と晩年
- 鼎は在官中、清廉勤勉で評判が高かった。御史の練綱は敢えて物を言うことで知られ、鼎はとりわけ章奏を書くのが巧みであった。京師では「左鼎の手、練綱の口」と言い、公卿以下みなこれを憚った。
- 鼎は廣東石參政として出たが、たまたま英宗が復位すると、郭登の言によって召されて左僉都御史となり、一年余りで卒した。
附・練綱
- 練綱は字を從道といい、長洲の人である。祖父の則成は洪武の時の御史であった。綱は郷試に及第して國子監に入り、都察院で実務についた。
- 郕王が監国したとき、中興八策を上った。額森が侵入しようとしたときにも、和議に応じてはならぬこと、南遷に従ってはならぬこと、この議を唱える者はただちに誅すべきことを述べ、安危の頼るところは于謙と石亨だけであるから中軍を主らせ、大臣を分遣して九門を守らせ、親王のうち忠孝で聞こえた者を択んで守臣とともに王事に励ませ、陝西の守将に檄して番兵を調発し入衛させるべきだとした。帝はすべて従った。
- 綱は才があって弁が立ち、功名を急いだ。都御史の陳鎰と尚書の俞士悅はいずれも綱と同郷で、綱がたびたび時政を陳べて評判があることを思い、またその口を恐れて、そこで推薦し、御史を授けられた。
- 景泰改元(1450年)、時政五事を上った。兩淮の鹽政を巡視し、駙馬都尉の趙輝が利を侵しているとして弾劾した。
- 景泰三年(1452年)冬、同僚とともに詔に応えて八事を陳べ、いずれも許されて実行された。ほどなくまた同僚とともに、吏部の推挙が不公平で情に任せて上下していると上言し、尚書の何文淵と右侍郎の項文曜を法に付されたいと請い、尚書の王直と左侍郎の俞山は平素の行いはもともと正しいが文曜らに欺かれたのだから、いずれも取り調べるべきだとした。帝は罪しなかったが、結局は綱らを正しいとした。
- 翌景泰四年(1453年)、延綏の軍務に参賛するよう命じられたとき、自ら名が軽く責が重いと述べて僉都御史を授けられたいと乞うた。帝は「昇進を自分から求めてよいものか」と言い、その命を取り止めた。
- はじめ京師に戒厳が敷かれたとき、四方の民壮を募って営に分けて訓練したが、年久しくして逃亡する者が多く、演習に期日どおり来ない者もあった。廷議は彼らを軍籍に編入しようとした。綱らは「召募の初めには忠義を説いて奮い立たせ、事が定まれば解散すると約束した。今、繰り返し輪番で演習させているだけでもすでに期待に背いている。まして逃亡は実際には飢えと寒さに迫られてのことである。にわかに軍籍に載せてよいものか。辺境には事が多い。またあらためて召募するとき、誰が応じよう」と言った。詔が下ってこの命は取り消された。
- 景泰五年(1454年)、福建を巡按し、按察使の楊珏と互いに告発し合ってともに吏に下された。珏は黄州知府に、綱は邠州判官に落とされた。久しくして卒した。