明史卷一百六十四 列傳第五十二 曹凱

出自と英宗北征の諫言

  • 曹凱は字を宗元といい、益都の人である。正統十年(1445年)の進士で、刑科給事中を授かった。磊落で気概があった。
  • 英宗が北征しようとしたとき、力を尽くして諫め、さらに「今日の情勢は澶淵の時とは大いに違います。あのときは文武が忠勇で士馬が精強でした。今は中貴が権を盗み人心は緩んでいます。この輩は陛下を孤注に賭けるだけでなく、懐帝・愍帝や徽宗・欽宗のような事態になっても顧みる暇はありますまい」と言った。帝は従わず、乗輿は果たして陥った。
  • 凱は終日痛哭し、その声は禁庭にまで届いた。王竑とともに馬順を撃って死に至らしめた。

景泰の建言

  • 景泰年間、左給事中に遷った。林聰が何文淵を弾劾したとき、周旋して詔で赦させたが、凱は殿上で二人を力争したので、二人は吏に下された。
  • 当時、豆を納めれば官に補せられる制度があった。凱は次のように争った。近ごろの例では豆四千石以上を納めれば指揮を授ける。彼らは十余年も禄を受ければ費やした分はもう取り戻せる。それを世襲にするのは、生民の膏血で功のない子孫を養い、彼らに無限に利息を取らせるものである。功のある者は必ず「自分は身を捨ててこれを得たのに、彼は豆を納めてこれを得た」と言い合うだろう。これは朝廷が我らの命を豆と同じに見ているということで、誰が離反せずにいられよう。今後は俸を帯びるだけで職務に就かせないこととし、世襲する文職は原籍で俸を帯びるだけにとどめられたい、と。
  • 帝はもっともとし、すでに授けた者は元のままとし、まだ授けていない者はすべて凱の議のとおりにせよと命じた。
  • 福建巡按の許仕達と侍郎の薛希璉が互いに告発したとき、凱に調査を命じた。推薦により浙江右參政に抜擢された。
  • 当時、諸衛の武職が軍を使役して月々の銭を出させていた者が四千五百余人に及んだが、凱の言により禁止された。鎮守都督の李信が勝手に民を募って軍とし、糧一万余石を浪費したので、凱が弾劾した。信は赦されたが、信の募兵を助けた者はみな罪を得た。
  • 浙江にあること数年、評判はきわめて高かった。はじめ凱は給事であったとき武清侯の石亨を弾劾したことがあり、亨は志を得ると先の恨みを晴らして凱を衛の經歴に落とした。凱は卒した。

附・許仕達

  • 許仕達は歙の人である。正統十年(1445年)の進士で、御史に抜擢された。景泰元年(1450年)四月、上疏して災異がたびたび現れていることを述べ、帝に痛切に自ら省みるよう請い、帝は深く納れた。ほどなくまた、經筵のほかの日にも儒臣を招いて経史を講論されたいと請い、帝は手厚い詔で褒め答えた。
  • 福建を巡按したとき、鎮守中官の廖秀を弾劾して獄に下した。秀は仕達を告発したので、鎮守侍郎の薛希璉らに調べさせた。ちょうど仕達も希璉の貪欲放縦を弾劾したので、凱と御史の王豪に調査を命じた。復命では両人ともに虚実が入り交じっていたが、耆老数千人が仕達の留任を乞い、給事中の林聰は閩の人であるからやはり仕達のために言ったので、留任を命じ、あわせて希璉に敵対を構えぬよう敕した。
  • 仕達は綱紀を厳しくし、漳州知府の馬嗣宗を捕らえて京師に送ったので、大理寺がその独断の逮捕を弾劾したが、帝は贓吏を捕らえたのだからと問わなかった。
  • 任期が満ちて交代となるとき、耆老が闕に赴いて留任を請うたが許されなかった。ほどなく福建左參政とされ、天順年間に山東・貴州の左布政使・右布政使を歴任した。