明史卷一百六十四 列傳第五十二 聊讓
蘭州の人で、肅府儀衛司の餘丁であった聊讓。学を好んで志が高く、時務に明るかった。景帝が王振の弊を懲りて言路を開くと、闕に赴いて上書し、賢能の登用、宦官の抑制、君主の心の涵養、諫言を容れる度量など数事を論じ、帝に嘉納された。のち進士に及第したが、知縣のまま卒した。同じく上書して時政を論じた郭佑・胡仲倫・華敏・賈斌が附されている。
出自と景泰元年(1450年)の上書
- 聊讓は蘭州の人で、肅府儀衛司の餘丁である。学を好んで志が高く、時務に明るかった。
- 景帝が位を継ぐと、王振に覆い隠された弊を懲りて大いに言路を開き、吏も民も上書して政事を論じられるようになった。景泰元年(1450年)六月、讓は闕に赴いて数事を述べた。その大要は次のとおりである。
- 近年、土木工事がさかんに起こり、異端が勢いを増し、番僧が引きも切らず、汚吏が横行している。宰相はその非を正さず、御史はその罪を弾劾せず、上下は覆い隠され、民の暮らしは衰え疲れている。狡猾な敵が辺境を侵し、上皇は他所に移されている。陛下が枕を戈にし胆を嘗める時であるのに、賢を抜き能を挙げて政治を一新せずにいてよいものか。
- 昔、宗澤・岳飛が将であったときは敵国もその名を呼ぶことを憚り、韓琦・范仲淹が辺境を鎮めたときは西方の賊がそれを聞いて肝を潰し、司馬光が宰相の位にあったときは強隣が辺境を侵すなと戒め合った。今、文武の大臣で威名と徳望のある者を枢要の任に就け、そのうえで智略才能の士を招き求めて朝廷に満たせば、額森は必ず畏れ服し、上皇の帰還も日を指して待てよう。
- 大臣は陽であり宦官は陰である。君子は陽であり小人は陰である。近ごろの日食・地震は陰が盛んで陽が衰えていることを天地が咎めて示したものである。どうか陛下は乾綱を総攬し、宦官を抑えて政に関与させず、小人を遏めて位に居らせぬようにされたい。そうすれば陰陽は順い天変は止む。
- 天下の治乱は君主の心の邪正にある。狩猟を楽しみとし、宮室を贅沢にし、宦官に馴れ親しむ、この三つのうち一つでもあれば君主の心を毒するに足りる。どうか陛下は自らを涵養して克ち治め、賢士大夫に多く接し、宦官・宫妾に近づくことを少なくされたい。そうすればおのずと奢靡を改め遊惰を戒め、心に正しからぬところがなくなる。
- 堯が謗木を立てたのは人が言わぬことを恐れたからで、それゆえ聖であった。秦が諡法を廃したのは人が自分を論ずるのを恐れたからで、それゆえ亡んだ。陛下が諫めに従う度量を広くし、直言の臣を表彰されれば、国家の利弊も庶民の苦楽も、臣下は憚るところなく言い尽くす。
- 蘇氏は「平生、顔を犯して敢えて諫める臣がいなければ、難に臨んで必ず節に殉じ義に死ぬ士はいない」と言った。どうか陛下は常にこの言葉を念頭に置いて審らかに察せられたい、と。
- 書が奏せられると帝はかなり嘉納した。四年後の景泰五年(1454年)、讓は進士に及第し、知縣の官にあって卒した。
附・郭佑
- 景泰二年(1451年)、監生の郭佑もまた上書して兵事を論じた。その大要は次のとおりである。
- 逆賊が順を犯し、上皇が塵をかぶられた。これは千古の非常の変であり、百世を経ても必ず報いるべき讎である。ところが今、敵の使臣は来るたびに数千を数え、驕り高ぶってこちらに要求を突きつけるのに、我らは隠忍姑息して賊の勢いを日々強め、こちらの気を日々萎えさせている。敵が和を求めれば和し、戦を求めれば戦うのでは、和戦の主導権はこちらになく賊にある。
- どうか陛下は人心を結び賢良に親しんで国本を固め、蓄えを広くし将士を鍛えて国の気を壮んにし、分を正し名を定めて義によって裁かれたい。もし敵が猛々しく侵してくるなら兵を挙げて罪を問い、大漠の南から一頭の馬も踏み込ませぬようにする。そうしてこそ百年の無事を保てる。さもなくば西北の力は尽き東南の財は涸れ、一日も枕を高くできない。
- 先ごろ国用が乏しいことから、国政を謀る大臣が一時の急をしのごうとして、粟を納めた民に冠帯を賜ることにした。今、軍事はやや落ち着いたのに、それが元のまま行われている。農・工・商・販の徒が賢愚も問われず、財だけで授けられ、親戚に驕り郷里に誇り、分不相応の邪心を助長している。贓罪で罷免されて庶民に落とされた汚吏が、郷党の恥を隠そうとして粟や草を納め、冠帯を得て帰る。以前は財を貪って職を去り、今は財を納めて官を得る。これでどうして貪残を禁じ名爵を重んじられよう。
- まして天下は統一され、富は民のもとに蓄えられている。どうしてもやむを得ぬところまで来ていないのに、こうした措置をとるのは、乏しさを見せて賊の心を誘うことである、と。
- 章は廷議に下されたが阻まれて実行されなかった。
附・胡仲倫
- 胡仲倫という者は雲南鹽課提舉司の吏目である。事のついでに入京したところ、上皇が北狩となり、額森が妹を娶らせようとした。上皇はそこで廣寧伯の劉安を遣わして帝に伝えさせた。仲倫は上疏して争い、今日の事で屈してはならぬ点が七つあると言った。
- 第一に、万乗の尊を降して婚姻を結ぶこと。第二に、敵が和議にかこつけてこちらの備えを解かせること。第三に、必ず姻戚になろうとするのは驕り高ぶって自らを大とするものであること。第四に、金帛を要求してこちらを疲弊させること。第五に、車駕を送るという名目で機に乗じて侵入すること。第六に、上皇に手詔を迫って辺城をだまし取ろうとすること。第七に、山後の地を求めようとすること。少しでもその一つに従えば大事は去る、と。
- さらに次のように言った。かつて上皇が位にあったとき、王振が権を専らにし、忠義の諫言をした者は死に、剛直な者は流された。君子は排斥され小人は急に昇進し、章奏の多くが中㫖で裁かれ、黒白は入り乱れ邪正は逆さになった。閩・浙の賊が盛んになり、衛拉特との争いが大きくなったのはそのためである。陛下は賢に親しみ姦を遠ざけ、賞を信とし罰を必とし、上の意を通じ下の志を達せられたい。そうすれば売国の姦は付け入る隙を得ず、突然の変も起こしようがない。朝廷はこれによって尊ばれ、天下はこれによって安んずる、と。
- 帝はこれを嘉納した。
附・華敏
- 華敏という者は南京錦衣衛の軍餘である。意気は激しく、書を読んで大義に通じ、王振が国を乱したことに憤り、仲間と語るときはいつも眦を裂いて怒り罵った。
- 景泰三年(1452年)九月、上書して次のように言った。近年、内官の袁琦・唐受・喜寧・王振が権を専らにして政を害し、国事を危うくした。どうか陛下は微を防ぎ漸を杜ぎ、権綱を総攬して子孫万世の法とされたい。さもなくば禍が身内に熟し、曹節・侯覽の害が今日ふたたび現れることを恐れる。臣は賤しく浅学ながら痛哭流涕に堪えない。謹んで軍を虐げ民を害する十事を陛下のために痛切に申し述べる。
- 一の害。内官の家に金銀珠玉が室に積み籠に満ちるのは、どこから来たのか。内では府庫を盗み、外では民の膏を削っているのでなければあり得ない。
- 二の害。勢いを恃み寵を誇って公侯の邸宅を占め、工役を起こして軍民を労し騒がせる。
- 三の害。家人や外戚はみな市井の無籍の者で、横暴を極めて勝手に姦を働き、粟を納めて官を得るので貴賤が入り乱れる。
- 四の害。仏寺を建造して莫大な費用を使い、一己の私を営んで万家の産を破る。
- 五の害。広く田荘を置いて賦税に入れず、郡県に戸を寄せて徴役を受けない。田の畦が延々と連なるのに民には立錐の地もない。
- 六の害。家人が塩の引を請け、引の数を偽って占め、他人に転売して莫大な利を得る。国家の法を壊し、力ずくで商人の利を奪う。
- 七の害。倉庫の設置を奏請して商旅を待ち受け、勢いを恃んで掛け買いし、強きを恃んで支払わない。商人は座して疲弊し、誰も咎められない。
- 八の害。軍匠を売り放って伴当と称し、月々の銭を出させるので、内府の監局の営作に人が足りず、工役は煩重で兵力が足りない。
- 九の害。家人が物資を買い付けると、所管の役所が恐れて一の割り当てを十にするので、官を損ない民を損なう。
- 十の害。監作の者は行く先々で法外な酷刑を用い、軍匠は塗炭の苦しみに遭い、その怨みと苛酷さは堪え難い。
- 章は禮部に下されたが、そのまま実行されなかった。
附・賈斌
- 賈斌という者は商河の人で、山西都司の令史である。これも疏を上げて宦官の害を論じ、漢の桓帝、唐の文宗、宋の徽宗・欽宗を戒めとして引いた。
- あわせて自ら編んだ忠義集四卷を献じた。史書の伝に記された直諫し忠を尽くし節を守った士を採り、宦官が寵を恃んで政を害し鑑戒とすべき例を付け加えたものである。工人に命じて刊行されたいと乞うた。
- 禮部は、その言葉はもっともであるから御覧に入れて納れられたいが、刊行するには及ばないとした。帝は承知した旨を答えた。