明史卷一百六十四 列傳第五十二 范濟

出自と宣宗への八事

  • 范濟は元の進士である。洪武年間に文学によって挙げられ廣信知府となったが、連座して興州の戍に流された。宣宗が即位したとき、濟は八十余歳になっていたが、闕に赴いて八事を述べた。
  • 第一に言う。楮幣の法は漢唐に始まる。元は元統交鈔を造り、のちに中統鈔を造ったが、久しくして物が重く鈔が軽くなり、公私ともに疲弊した。そこで至元鈔を造って中統鈔と併用し、子母の重みを釣り合わせ、新旧を通用させた。また民間の傷んだ鈔を平準庫に持ち込ませ、中統鈔五貫で至元鈔一貫に換えられるようにした。さらにその法では日々一万錠を造り、官吏の俸禄・内府の供用が幾ら、天下の正税・雑課が幾らと総計し、収と発に方法があって、滞りなく流通した。だから久しく通用したのである。
  • 太祖皇帝は大明寶鈔を造り、鈔一貫を白金一兩に当てられたので、民は喜んで従い、今に至るまで五十余年である。その法がやや弊害を生じているのも、やはり物が重く鈔が軽くなったためである。どうか陛下は時に応じて変通し、寶鈔を造り直して一律に洪武初の制に準じ、新旧を併用されたい。元の時に造った数を参考にして増減し、国家の支出を見はからって釣り合わせ、鈔を少なく物を多く、鈔を重く物を軽くされたい。偽造の条を厳しくし、両替の法を開き、古きを推して新しきを出せば、目減りも滞りもなく、鈔法は流通して永く弊害がない。
  • 第二に言う。辺境を備える道は険要を守ることが肝要である。朔州・大同・開平・宣府・太寧は京師の垣であり辺境の門戸である。土地は耕せ、城は守れる。兵を盛んに置いて防禦し、広く屯田を開き、城堡を修め、烽火を慎み、斥候を明らかにし、小利を貪らず、軽々しく遠征を求めず、堅く守って野を清め、敵に何も得させないようにし、疲れたところを撃つ。利を得たらそこで止め、深追いしない。これが辺境を守る要領である。
  • 第三に言う。兵は多さではなく戦えるかどうかである。近ごろは罪を得た官吏や人民を多く塞上の軍に充てているが、白面の書生でなければ老弱病廃の者である。出征があると力のある者は免れ、貧弱な者が数合わせにされる。武器は揃わず糧食も備わらず、敵の姿を見ただけで震え上がる。どうして死力を尽くせようか。今、その中から壮勇の者を選んで訓練を加え、残りは城に上らせ夜回りをさせ、役所の走り使いをさせれば、それぞれに用が立つ。
  • 第四に言う。民の病で軍籍の勾取ほど甚だしいものはない。衛所は差遣の官を六、七人も出し、百戸も軍旗を二、三人出す。いずれも縁故を結ぶ力があり、また征調を避けたい者が重い賄賂で派遣を得る。州県に着けば勝手に威福をふるい、里甲を脅して姦私をほしいままにし、丁のない家からも際限なく取り立てる。丁のある家は死亡と偽り、口実を設けて長く居座り帰らず、帰れば得た財物を官吏に配って曖昧に報告させる。実際に取れた丁は十のうち一もない。これで軍に欠員が出ないようにせよというのは無理である。今後は軍士に事故があれば各衛から都督府と兵部に報告させ、府と部が布政司・按察司に通牒し、府州県に籍貫と姓名を照合させて勾取して衛に送らせれば、人を遣わして騒がせる弊はおのずと絶える。
  • 第五に言う。洪武年間、軍士の七分を屯田に、三分を守城に当てさせたのは最善の策であった。近ごろは調度が日々煩雑になり造営が日々広がって、屯種は名ばかりで田の多くが荒れている。加えて馬を養い草を刈り薪を伐り炭を焼くなど雑役が入り乱れる。兵力がどうして疲れずにいられよう。農業がどうして廃れずにいられよう。どうか辺将に敕して兵卒に荒地の開墾を課し、頃畝を定め、官から牛と種を給し、勤惰を調べ、賞罰を明らかにして勧懲を示されたい。そうすれば塞下の田はすべて開墾でき、輸送の負担はいよいよ緩み、諸辺は富み実る。これに勝る便宜はない。
  • 第六に言う。学校は風化の源であり人材の出るところで、本体を明らかにし実用に適することを貴ぶのであって、ただ文芸を競うものではない。洪武年間は師儒を精選して教養がきわめて行き届き、人材は立派であった。近ごろは士の風習が萎縮し、志は大きくなく、節を守るのも堅くない。平生から剛毅正大の気がないのに、どうして朝廷に立って名ある公卿となることを望めよう。良士を選んで郡県の学官とし、民間の子弟で性行の謹厚な者を生徒に択び、経史を教え節行を励まし、成るのを待って國學に貢し、磨き鍛えて気を充実させ志を定め、卓然たる人材に育ててから挙用すれば、天下国家の事を任せるのに何の難しさもない。
  • 第七に言う。兵は凶器であり、聖人はやむを得ないときにだけ用いる。漢の高祖が平城の囲みを解かれたとき、蕭何や曹参が復讐を勧めたとは聞かない。唐の太宗が便橋で突厥を防いだとき、房玄齢や杜如晦が報復を勧めたとは聞かない。古の英君良相が民力を疲れさせて武功を誇ろうとしなかったのは、思慮が遠いのである。
  • 洪武の初め、かつて奮って将に命じ沙漠を掃おうとされたが、輸送が続かず、ただちに軍を返された。そこで東勝衛を大同に撤し、山西陽武の谷口を塞ぎ、将を選び兵を練り、険を扼して待ち、内には政教を修め、外には辺備を厳しくし、屯田を広げ、学校を興し、貪吏を罰し、頑民を移した。数年のうちに多爾濟巴勒は娘を献じ、巴延特穆爾・鼐爾布哈らは相次いで捕らえられ、納克楚も降った。これは内治に専心して遠征に努めなかったことの明らかな効験である。
  • 願わくは遠くは漢唐に鑑み、近くは太祖に法り、兵を窮め武を黷すことを快とせず、敵地を掃討することを功とせず、不毛の地を捨て、冠帯の民を休養させ、田桑に力を尽くさせ、庠序に心を尽くさせられたい。辺塞に傷ついた者の苦しみが絶え、村里に呻き声が絶え、将に僥倖の功なく、士に若死になければ、遠方の人はおのずと服し、荒外はおのずと帰し、国祚は万年に長らえる。
  • 第八に言う。官は数ではなく人を得ることである。国家は大乱の後を承け、時に応じて増減し、府を州とし州を県とし、続いて小県を統合した。俸禄に足りぬ糧しかない所は、民の数をはかって官を設け、民の多い県には丞と主簿を置き、少ない所は知県と典史だけとした。その頃は官に廃事なく民は苦労しなかった。
  • 今の藩司・臬司の二司および府州県の官は洪武年間の倍もあるのに、政はますます治まらず民はますます安んぜず、姦弊は続出し詐偽が増している。はなはだしきは、官が審理できず吏が文書に通じないので、代書の者を役所に留め置いて名を借りさせ、賄賂が公然と行われ、訴訟が滞る。すべて官が冗り吏が濫りに多いことによる。どうか御自ら断じて、内外の官吏はすべて洪武年間の定員に依り、冗濫な者はことごとく汰されたい。そうすれば天の職に怠りなく、諸々の事績はみな輝き、天下は大いに治まる。
  • 奏が上がると、廷臣に議させるよう命じられた。尚書の呂震は、文辞が冗長でしかも多くはすでに行われている事だから採るに足りないとした。帝は「述べるところにたいそう学識があり、多くが朕の心にかなう。その平素の履歴を調べて報告せよ」と言った。
  • 震はそこで、濟はもと元の進士で郡を守ったが事に坐して辺境に流されていると述べた。帝は「惜しいことだ。この人を長く行伍に埋もれさせていたのか。今もなお用いるに足りる」と言った。震が「年老いております」と言うと、帝は「国家の用人にはまさに老成が必要だ。ただ煩雑な職を任せてはならぬ」と言い、濟を儒學訓導とした。