明史卷一百六十四 列傳第五十二 黄澤

出自と宣宗への十事

  • 黄澤は閩縣の人である。永樂十年(1412年)の進士で、河南左參政に抜擢された。南陽には流民が多かったので、慰撫して生業に戻らせた。かつて丁役を率いて北京に行ったときも、手厚く面倒を見た。久しくして湖廣に移った。
  • 仁宗が即位すると入朝して時政を言い、多くが採用された。宣宗が立って詔を下して言を求めると、澤は上疏して十事を述べた。心を正すこと、民をいたわること、天を敬うこと、諫めを納れること、兵を練ること、農を重んずること、貢献を止めること、賞罰を明らかにすること、嬖倖を遠ざけること、冗官を減らすことである。
  • 嬖倖を遠ざけることについてはこう述べた。刑余の者は心情が陰湿で思慮が険譎である。大姦は忠に似、大詐は信に似、大巧は愚に似ている。ひとたび親しめば、美酒を飲んで酔いに気づかぬように、干し肉を噛んで毒に気づかぬようになる。寵愛するのはきわめて易く、遠ざけるのはきわめて難い。だから古では宦官に兵を典らせず政に関わらせず、患いを芽のうちに防いだのである。細流を塞がなければやがて大河となる。この輩は一切遠ざけて政務に当たらせるべきでない。漢唐の先例は明々白々の鑑である、と。
  • 成祖の時に宦官がやや政務に関わり始め、宣宗はしだいに近づけ寵愛した。澤の十事のうちこれがとりわけ切実であったが、帝は感嘆はしても用いることができなかった。その後、内書堂が設けられ、宦官の多くが書に通じ文義を解するようになった。宦官の勢いが盛んになるのは宣宗に始まる。

浙江布政使と失脚

  • 宣徳三年(1428年)、浙江布政使に抜擢され、あらためて上言して、平陽・麗水など七県の銀山は廃止すべきだとし、あわせて諸々の坑冶をすべて廃することを請うた。言葉はきわめて切実であった。帝は嘆息して「民の困窮がこれほどとは。朕はどうして知り得ようか」と言い、官を遣わして検分させ、案を練って報告させた。
  • 澤は在官中に政績があったが、激怒することが多かった。鹽運使の丁鎡が道を譲らなかったので打ちすえ、そのため奏上された。巡按御史の馬謹も澤を弾劾した。九年の任期満了に際して、自ら県を巡って白金三千兩を集め官物を弁償し、しかも境を越えて自宅に立ち寄ったので、逮捕されて下獄した。正統六年(1441年)に庶民に落とされた。
  • はじめ澤は、金華・台州の戸口は洪武の頃に比べて減っているのに弓箭の年ごとの製造は元のままであると奏し、減免を乞うた。部議に下されて認められたが、澤が罷免されてすでに一月余りが過ぎていた。

附・孔友諒

  • 孔友諒は長洲の人である。永樂十六年(1418年)の進士で、庶吉士に改まり、雙流縣の知事に出た。宣宗の初め、六事を上言した。
  • 第一に言う。守令は民に親しむ官である。古は資格にこだわらず必ず適任者を得、年月を限らずその力を尽くさせた。今の在職者には撫育の方法を知らぬ者が多く、しかも廉潔有能で民心を得ている者は、遷任が定まらず差遣も一定しない。あるいは些細な事に連座して朝から晩まで対処に追われ、道中を往来して日々余裕がない。どうか吏部に敕して、才望が平素すぐれた者や京官を長く勤めた者を任じ、上司には勝手な差遣をせぬよう戒め、年月を与えて治績を責めさせたい。また遠隔地の欠員では、佐貳の官が削減されて一人だけが在職しており、事があって上京すると雑職に事務を委ねることが多い。因循苟且で政令が定まらず、民は畏れを知らない。今後、遠隔地の職には常に正員一人を留めて事に当たらせ、勝手に離れさせないようにすれば、法に一定の守りができる。
  • 第二に言う。科挙は賢を求めるためのもので、必ず名と実が相伴わねばならず、ただ数の多さを誇るものではない。今の秋闈は動もすれば一、二百人を取り、弊害は多岐にわたって僥倖の者が半ばを超える。會試の不合格は十のうち八九であり、及第した者も行いは伴わないことがある。どうか開科の年に諸生の履歴を詳しく調べ、孝弟忠信で学業のすぐれた者にのみ受験を許されたい。そうすれば浮薄な者を濫りに取ることがなくなり、国家は真の人材を用いられる。
  • 第三に言う。禄は廉を養うためのもので、収入が薄すぎれば生活が成り立たない。本朝の制禄の規定は前代に比べて薄い。今、京官と方面官はやや俸禄が増えたが、その他の大小の官は鈔への換算分を除けば月に米二石にすぎず、数人を養うにも足りない。上を養い下を育て、道中の往来の費用をどこから出せというのか。貪る者は利を漁って私を行い、廉なる者は終生貧しくても訴えるところがない。どうか戸部に敕して天下の糧の蓄えを実査させ、年ごとの支出の余りをはかって官の俸を増やし、あわせて内外の風憲官に廉潔な吏を探させて手厚く旌賞されたい。そうすれば廉なる者は励み、貪る者は戒める。
  • 第四に言う。古は賦役は土地の適性をはかり丁口を調べ、無いものは責めず、有るものを取り尽くさなかった。今は通常の賦のほかに和買・採辦の諸事がある。朝廷から見れば有司に官の銭を出させて公平に買わせているだけだが、無頼の輩が吏胥と通じて貨物を独占し、検査や目減りの名目を巧みに立てて数倍を取り立て、姦弊は百様に及ぶ。採買を全面的に停め、急を要さぬ事務を減らされたい。そうすれば国の賦は一定し、民は臨時の割り当てに煩わされない。
  • 残る二事は冗員を減らすことと風憲の任用について述べたもので、言う者が多く触れている内容なので載せない。
  • 宣徳八年(1433年)、吏部に命じて外官のうち文学のある者六十八人を選ばせ、試験して友諒および進士の胡端禎ら七人を得た。いずれも六科で事務を執らせ、二年いてみな給事中を授かったが、友諒だけは官を授かる前に卒した。