明史卷一百六十四 列傳第五十二 弋謙

出自と仁宗への直言

  • 弋謙は代州の人である。永樂九年(1411年)の進士で、監察御史に任じられ、江西に按察に出たが、上言が㫖に逆らって峽山知縣に貶され、さらに事に坐して免職となり帰郷した。
  • 仁宗は東宫にあった頃から謙の剛直を知っており、位を継ぐと召して大理少卿とした。謙は時政を直言し、官吏の残虐貪欲、政事の多くが洪武の旧に反すること、有司の誅求に限度のないことを述べ、帝は多くを採納した。
  • ついで五事を言ったが言葉が激しすぎ、帝は不快になった。尚書の呂震・呉中、侍郎の呉廷用、大理卿の虞謙らはそこで謙を誣罔の罪で弾劾し、都御史の劉觀は中御史に命じてそろって謙を糾弾させた。
  • 帝が楊士竒らを召してこの件を話すと、士竒は「謙は大体をわきまえておりませんが、心では抜擢の恩に感じ、それに報いようとしたにすぎません。主が聖なれば臣は直言します。どうか寛大にお容れください」と答えた。帝はそこで謙を罰しなかったが、謙に会うたびに言葉も顔色もきわめて厳しかった。
  • 士竒がさりげなく「陛下は詔して直言を求められました。謙の言が不当であったとしてお怒りに触れれば、外廷は震え上がって言うことを戒めます。今、四方の朝覲の臣が皆闕下に集まっております。謙のこの有様を見れば、陛下は直言を容れられぬと思うでしょう」と言うと、帝ははっとして「これはたしかに朕が容れられなかったのだが、呂震らが迎合して朕の過ちを増したのでもある。今後は捨て置こう」と言い、謙の朝参を免じて、もっぱら司の事務を見させることにした。

仁宗の敕書

  • ほどなく帝は上言する者がいよいよ減ったので、また士竒を召して「朕は謙が矯激で実に過ぎたのを怒っただけだ。ところが朝臣は一月余りも何も言わない。お前から諸臣に語って朕の心を明らかにせよ」と言った。士竒が「臣の口先だけでは信じてもらえません。自ら璽書を降されますよう」と乞うたので、寝台の前で敕を書かせ、過ちを引いて次のように述べた。
  • 朕は即位以来、臣民の上章は数百を数えるが、喜んで聴き納れなかったことはない。不当なものがあっても叱責を加えなかったのは群臣の皆知るところである。先ごろ大理少卿の弋謙の言に事実でないものが多かったところ、群臣は朕の意を迎えて、そろって章を上げ、謙が正直ぶって売名していると言い、法によって処すよう求めた。朕はいずれも拒んで聴かず、ただ謙の朝参を免じただけである。
  • しかしそれ以来、言う者はいよいよ減った。今、去年の冬から雪がなく、春も雨が少ない。陰陽が調和を欠くのには必ず理由がある。言うべきことがないはずはあるまい。臣たる者が保身を図って退いて黙りこむのでは、何をもって忠とするのか。朕は謙に対して一時の怒りを抑えきれなかったことを、自ら恥じ咎めなかったことはない。群臣は先の事を戒めとせず、国家の利弊や政令の不当な点について、憚らず直言せよ、と。
  • 謙の朝参は元どおりになった。当時、中官が四川で木材を採取して貪欲横暴であったので、帝は謙の清直を見込んで赴かせて処理させ、謙を副都御史に抜擢し、鈔を賜って出発させた。かくて採木の役は廃止された。
  • 宣徳初、交阯右布政の戚遜が貪淫で罷免され、謙に代わって赴くよう命じられた。王通が交阯を放棄した(1427年)とき、謙もまた死罪を論じられた。正統初に釈放されて庶民となった。
  • 土木の変(1449年)に際して、謙は布衣のまま闕下に走り、王通および甯懋・阮遷ら十三人はいずれも奇才で用いるべきだと推薦した。衆議は王通を石亨の副にしようとしたが、謙は通に専任すべきだと請うたので、事は取り止めになった。廷臣は謙が重い名声を負っていることから留任を奏したが、これも返答はなかった。景泰二年(1451年)にまた入京し、疏を上げて通らを推薦したが納れられず、罷めて帰り、ほどなく卒した。
  • 仁宗は性質が寛大で直言を容れた。それゆえ謙は罪を得ず、かえって呂震らが責められた。また黄驥が西域の事を言ったときも、帝は震を責めてその言を実行した。

附・黄驥

  • 驥は全州の人である。洪武年間に郷挙に及第して沙縣の教諭となり、永樂の時に禮科給事中に抜擢され、たびたび三度西域に使いした。
  • 仁宗の初め(1425年)、上疏して次のように言った。西域の貢使には商人が多く、無頼の小人がそれに事寄せて従者にもぐり込み、駅伝に乗り人を使役して貢物を京師に運んでいる。賞賜が手厚いので、蕃人は利を慕って貢が絶える月がなく、民は生業を失い農事が妨げられている。使者が帰るときには貨物を大量に積み、車が百余輌に及ぶ。丁男では足りず婦女まで駆り出され、行く先々で駅官を辱め人夫を鞭打つが、誰も逆らえない。
  • どうか陝西行都司に敕して、哈密諸国の王が遣わす入貢の使者だけ入京を許し、正使・副使だけが駅馬に乗れることとされたい。そうすれば陝西の人はいくらか息をつけよう。西域の産物は馬だけで、辺境の需要に切実であるが、これは甘肅の軍士に給せばよい。硇砂や梧桐鹻のたぐいは国用に何の益もない。すべて受け取らないことにされたい。そうすれば来る者はおのずと減り、無駄な出費も省ける、と。
  • 帝はこれを尚書の呂震に示し、そのうえで責めて「驥はかつて使いして西方の事に通じている。卿は西方の人でありながら通じていないのか」と言った。驥の言が正しかったので、ただちに議して実行した。
  • のち右通政に遷り、李琦・羅汝敬とともに交阯の撫諭に赴き、使命を辱めなかった。使いから戻ってほどなく卒した。