篇目
- この巻に立伝されるのは鄒緝・弋謙・黄澤・范濟・聊讓・左鼎・曹凱・劉煒・單宇・張昭・髙瑶で、鄒緝に鄭維桓・柯暹、弋謙に黄驥、黄澤に孔友諒、聊讓に郭佑・胡仲倫・華敏・賈斌、左鼎に練綱、曹凱に許士達、劉煒に尚禠、單宇に姚顯・楊浩、張照に賀煬、髙瑶に虎臣が附される。
出自と経歴
- 鄒緝は字を仲熙といい、吉水の人である。洪武年間に明經で挙げられて星子の教諭を授かり、建文の時に入って國子助教となった。
- 成祖が即位すると翰林侍講に抜擢され、東宫が立つと左中允を兼ね、たびたび國子監の事を署理した。
永樂十九年(1421年)の直言
- 永樂十九年(1421年)、三殿が焼け、詔によって直言が求められると、緝は上疏して次のように述べた。
- 陛下が北京の造営を始められて心を砕かれること二十年近く、工事は大きく費用は膨大で、調度の範囲も広い。無用の官が民を食い荒らして国の蓄えを損ない、工作の人夫は動もすれば百万を数え、年中役に就いて自ら田畝に赴いて耕すことができない。そのうえ徴発には限度がなく、桑や棗を伐って薪にあて、桑の皮を剥いで紙にするありさまである。
- 官吏の横暴な徴収も日ごとに増している。先年の顔料の買い付けなどはもともと土地の産物ではないのに、動もすれば千百の割り当てが来るので、民は互いに鈔を集めて他所で買い求めた。大青は一斤の価が一万六千貫にも達し、納入の段になるとまた難癖をつけられ、往復のやり取りで二万貫の鈔が要るのに、それでも柱一本分の用にも足りなかった。のちに産地へ官を派遣して採取させたのに、買い付けはなお止まなかった。工匠が多く割り当てて利を得ようとし、民の苦しみを顧みないからここまで来たのである。
- そもそも京師は天下の根本であり、人民が安んずれば京師が安んじ、京師が安んずれば国の本が固まって天下が安んずる。ところが造営が始まって以来、工匠の小人が威勢を借りて立ち退きを迫り、号令が出た途端に家屋はもう壊されている。孤児や寡婦は泣き叫び、あわてふためいて野ざらしになり、どこへ行けばよいのか分からない。移転がようやく落ち着くとまた別の場所へ追い立てられ、三度四度と移されて休む暇のない者もいる。しかも立ち退かせて空けた土地は、月をまたぎ時を越えても工事が及ばない。これは陛下がご存じなく、人民が恨み苦しんでいる点である。
- 貪官汚吏が内外に満ち、その搾取は骨髄にまで及ぶ。朝廷が一人を遣わせば、それはその者を養う費用の口実になり、苛酷な取り立てにもともと限度がない。有司はご機嫌取りに遅れまいとするばかりで、廉直に自らを守り媚びへつらわぬ者があれば、たちまち讒言中傷を浴びせられ、罪に問われても弁明のしようがない。そのため使者が行く先々では有司が公然と賄賂を贈り、下を搾って上に媚びること、まるで商売のようである。小民の蓄えなどいかほどでもないのに、内外上下がこれほど誅求している。
- いま山東・河南・山西・陝西では水害と旱害が続き、民は樹の皮を剥ぎ草の根を掘って食べ、老幼が流亡して道路に倒れ伏し、妻子を売ってやっと生き延びている。それなのに京師には僧道が一万余人集まり、日々百余石の廩米を費やしている。これは民の食を奪って無用の者を養うものである。
- また報効の軍士には朝廷が糧と賜与を厚く与えているが、いざ役に就かせると驕り高ぶって好き勝手に遊び回る。これは皆、姦詐の者が元の部隊に戻されるのを恐れてこれに事寄せて逃れているのであって、本当に報効の心があるのではない。
- 朝廷は毎年、天下に錦を織らせ銭を鋳させ、内官を遣わして馬を買わせている。外蕃の産出は常に数千万を数えるのに、こちらが手に入れるのは一、二にも及ばない。馬は数が多く来ても大半は駑馬で、民に牧養を割り当てるので騒擾がはなはだしく、死傷すれば賠償を命じられ、馬戸は貧窮してさらに妻子を売る。これがとりわけ大きな害である。
- 漠北からの降人には住居を賜り供応の設けを盛んにしているのは、その同類を招き寄せようとの意図であろう。だが来る者はいずれもこちらを窺う心を抱いており、本当に王化を慕って進んで郷土を去ったのではない。参内のあとは本国へ帰らせるべきで、留め置いて後日の子孫の患いとするには及ばない。
- 宫観や祈祷の事は、国を有つ者の深く戒めるべきところである。古人も「淫祀に福なし」と言った。まして無益の事によって有益の事を害し、財を食いつぶして無駄に費やすなどはなおさらである。
- これらはいずれも下は民心を失い上は天意に背くものであり、怨嗟の起こる原因は実にここにある。奉天殿は群臣に朝を受け号令を発するところ、古の明堂にあたる。その奉天殿にまず災いが及んだのは尋常でない異変である。自ら省み己を責め、大いに恩沢を布き、政化を改革して天下の窮困の民を洗い清めるのでなければ、上天の譴怒を回らすことはできない。
- 先に監生・生員が一人息子であることを理由に親に侍ることを願い出て、そのために罪を得て戍に遣られた者がある。これはまことに治体を損なう。近ごろの大赦でも、法司が条文に固執して、赦されるべき者がなお拘留されている。あわせて重ねて洗い直し、租賦を免じて一切徴収せず、有司百官の廩禄を全うし、賢才を抜き出して薦挙を行い、官吏で貪贓し政を害する者はその罪を調べて罷免されたい。そうすれば人心は喜び和気が至る。宗社を保ち安んじ、国家万年の基を作るのに、これに勝るものはない。
- しかも国家が長久を保つ拠りどころは天命と人心だけであり、天命は常に人心の去就を見ている。今の天意がこのようである以上、民を労するべきではない。南京に還都して陵廟に拝謁し、災変の理由を告げ、聖躬を養い無為に休息されたい。小人の言を聴いて、また造営を起こし、後日の陛下を誤ることのないように、と。
- 書は奏上されたが省みられなかった。当時、三殿が完成したばかりで、帝はちょうど定都を天下に詔したところに突然の火災に遭ってひどく恐れ、詔を下して直言を求めたのであった。ところが言う者の多くが時政をそしったので帝は不快になり、大臣がさらに意を迎えて言者をそしった。そこで帝は怒りを発し、上言する者は誹謗しているとして、詔を下して厳しく禁じ、犯す者は赦さないとした。
- 侍讀の李時勉、侍講の羅汝敬はともに下獄し、御史の鄭維桓・何忠・羅通・徐瑢、給事中の柯暹はともに交阯へ左遷された。緝と主事の髙公望、庶吉士の楊復だけが無事であった。
晩年と附伝
- この年の冬、緝は右庶子に進んで侍講を兼ね、翌永樂二十年(1422年)九月に官にあって卒した。
- 緝は群書を博く極め、官にあっては勤勉慎重で、清廉な暮らしぶりは寒士のようであった。子の循は宣徳年間に翰林待詔となり、父母への追贈を請うた。帝は吏部に諭して「かつて皇祖が沙漠を征したとき、朕は北京を守っていたが、緝は左右にあってその陳説はすべて正道であった。良臣である。許してやれ」と言った。
- 鄭維桓は慈谿の人である。永樂十三年(1415年)の進士で、交阯の南清州の知事となって卒した。
- 柯暹は池州建徳の人である。郷挙から交阯の驩州の知事となり、累進して浙江・雲南の按察使に至った。