明史卷一百六十三 列傳第五十一 林瀚

出自と国子監

  • 林瀚は字を亨大といい、閩の人である。父の元美は永樂末の進士で撫州知府であった。
  • 瀚は成化二年(1466年)の進士で、庶吉士に改まり偏修を授かり、再遷して諭德となったが、休暇を請うて帰郷した。
  • 𢎞治初、召されて憲宗實録を修め、經筵講官に充てられ、ほどなく國子監祭酒に遷り、禮部右侍郎に進んでなお監事を掌った。
  • 國學を典することおよそ十年。饌銀は年に百を数えるほどあり、すべて官に貯えて順次役所や宿舎を建て、師儒が借家住まいを免れたのは瀚に始まる。

南京吏部尚書

  • 吏部左侍郎・右侍郎を歴任し、𢎞治十三年(1500年)に南京吏部尚書となった。災異を理由に群僚を率いて十二事を陳べた。
  • 御史の王獻臣が遼東から逮捕されて詔獄に下され、儒士の孫伯堅らが縁故で中書舍人になったとき、瀚は疏を上げて争ったが㫖に逆らい、辞職を乞うたが許されなかった。
  • ついで根本を重んずべきことを奏請し、南京を保ち固めること、皇儲を助け啓くこと、百姓を撫綬すること、賢才を増し進めることの四つを挙げた。

正德の左遷と復官

  • 正德元年(1506年)四月、吏部尚書の馬文升が退くと、言官の邱俊・石介らが瀚を推薦したが、帝は侍郎の焦芳を用い、瀚は南京兵部に改めて機務に参賛させられた。
  • 命が届く前に、瀚は病を理由に休職を乞い、あわせて正心を養うこと、正道を崇ぶこと、正学に務めること、正人に親しむことの四事を陳べた。詔が下って慰留された。
  • 当時しばしば災異が現れたので、瀚および南京の諸臣は時政十二事を条陳したが、寵臣に関わる言葉が多く、大半は施行を阻まれた。
  • 瀚はもとより剛直で、守備の中官と合わず、進貢のためその地を通る他の内臣にも毎度抑制を加えたので、そろって劉瑾に讒言した。
  • 折しも劉健・謝遷が政務を退いた。瀚がこれを聞いて嘆息したこと、言官の戴銑らが劉健・謝遷の件で召し出されたとき瀚だけが餞別を贈ったことを瑾が聞き、いっそう恨んだ。
  • 翌正德二年(1507年)二月、銑らの獄詞にかこつけて、瀚を浙江參政に落として致仕させ、ほどなく奸党に指名した。瑾が誅されると復官して致仕とされ、月々の廩米と年ごとの隷僕を旧例どおり給され、さらに有司に命じて折々に安否を問わせた。
  • 瀚は人となり謙厚でありながら自ら守るところは毅然としていた。年八十六で卒し、太子太保を贈られ、諡は文安。子は九人あり、庭㭿と庭機が最も顕れた。

附・子の庭㭿

  • 庭㭿は字を利瞻といい、瀚の次男である。𢎞治十二年(1499年)の進士で、兵部主事を授かり、職方郎中を歴任した。吏部尚書の張綵が御史に改めようとしたが固辞したので、蘇州知府とされた。
  • 何年も大水が続いたので、職造を止め、繁多な徴税をやめ、関税を割いて振恤の備えにあてることを上疏し、再度上げてようやく許された。
  • 雲南左參政に遷り、正徳九年(1514年)、父が老いたことを理由に養侍を乞うた。当時、子の炫はすでに進士となり禮部主事の官にあったが、これも休暇を願って帰郷したので、三世が一堂に会し、郷里の人は盛事と称した。
  • 嘉靖初、父の憂いを終えて江西で起用され、湖廣左布政使・右布政使を歴任し、治績が卓抜であるとして右副都御史に抜擢され保定諸府を巡撫した。工部右侍郎を歴任し、詔に応えて、郊壇の大工事と南城・西苑の造営が相次いでいることを述べ、倹約をもって天下に率先されたいと請い、また災害を理由に採木・焼造の諸使を撤回されたいと乞うた。
  • 左侍郎に進み、尚書を拝して太子太保を加えられた。当時、帝はさかんに土木を興しており、庭㭿の企画は多く意にかなった。
  • たまたま沙河の行宫を建てる詔が下り、庭㭿が天下の田賦を増やすことを議したため、御史の桑喬・給事中の管見に弾劾され、辞職を乞うて帰郷し、卒した。少保を贈られ、諡は康懿。子の炫は通政司參議で終わった。

附・子の庭機

  • 庭機は字を利仁といい、瀚の末子である。嘉靖十四年(1535年)の進士で、庶吉士に改まり檢討を授かり、司業に遷り、南京祭酒に抜擢され、累進して工部尚書に至った。
  • 穆宗が立つ(1567年)と禮部に移った。いずれも陪都の官である。当時、子の燫がすでに祭酒であったので致仕して帰郷した。萬厯九年(1581年)に卒し、年七十六。太子太保を贈られ、諡は文僖。子は燫と烴。

附・孫の燫

  • 燫は字を貞恒といい、庭機の長男である。嘉靖二十六年(1547年)の進士で、庶吉士に改まり檢討を授かった。景恭王が藩邸に就くと燫に講読を侍させ、三度遷って國子祭酒となった。祖父の瀚、父の庭機とあわせて三世が祭酒となったのは、これ以前に例がない。
  • 隆慶改元(1567年)、禮部右侍郎に抜擢され日講官に充てられた。敵が辺境を侵したとき、備辺七事を条陳した。吏部に改まり、南京吏部に移って禮部の事を署理した。魏國公の徐鵬舉が長子を廃して幼子を立てようとしたとき、燫は不可を主張して譲らなかった。
  • 萬厯元年(1573年)、工部尚書に進み、禮部に改まったが、なお南京にあった。名位はまったく父の庭機と等しかった。母の喪で官を去り、服喪を終えたのちは、庭機が老いていたので侍養のため家に居り、萬厯七年(1579年)、父の庭機に先立って卒した。太子少保を贈られ、諡は文恪。
  • 明代に三世が尚書となり、そろって文の字の諡を得たのは林氏一家だけである。子孫は勤勉篤孝で、芝が三たび生え、枯れた篁が再び青くなったので、御史がその事を上申し、旌表された。

附・孫の烴

  • 烴は字を貞燿といい、庭機の次男である。嘉靖四十一年(1562年)の進士で、戸部主事を授かり、廣西副使を歴任した。兄の燫が卒したので急ぎ帰郷して養侍を請うた。
  • 久しくして太僕寺卿を歴任し、災異にかこつけて鉱税の害を極言し、捕縛された諸臣の釈放を請うたが返答はなかった。南京工部尚書で終わり、致仕した。
  • 林氏は三世で五人の尚書を出し、いずれも内行が清潔で、当時の人に称えられた。