明史卷一百六十三 列傳第五十一 謝鐸

出自と綱目の校勘

  • 謝鐸は字を鳴治といい、浙江太平の人である。天順末の進士で、庶吉士に改まり編修を授かり、英宗實録の編修に加わった。性格は孤高で、学に励んで古を慕い、経世の務めを探求した。
  • 成化九年(1473年)、通鑑綱目を校勘し、次のように上言した。綱目は帝王の鑑であり、陛下が重ねて考定を命じられたのは、經筵で進講して治世の資とされるためであろう。だが今、天下には太平の形はあっても太平の実がない。旧習をそのままにして実を廃し名に従っている。
  • すなわち、綱紀を振るうと言いながら小人には畏れ憚る心がなく、風俗を励ますと言いながら縉紳は廉恥を捨て、官司を整えると言いながら汚職と暴虐はいよいよ甚だしく、軍民をいたわると言いながら疲弊はいよいよ極まる。減省には制度があるのに造営のたびに人は奔命に疲れ、蠲免の詔があるのに徴斂のたびに追い立てに苦しむ。考察は行われないわけではないのに幸運を頼む門は日々開き、簡練は行われないわけではないのに私的な掣肘は日々増える。府庫の財を尽くして賞しても功ある者は励まず、審理の案を極めて罰しても罪ある者は懲りない。
  • そのうえ修省・祈祷の命はしばしば下り、水旱の災傷は絶えず、禁垣は揺れ城門は災を示している。それでも心を震わせ事態を転換して天と人の望みに大きく応えようとしないのは、まことに憂うべきである。願わくは陛下が古をもって今を証し、兢兢業業とされたい。そうしてこそ長く治まり久しく安んじ、書物も無用にはならない、と。帝は従うことができなかった。

辺防の建言

  • 当時、塞上に警報があったので、備辺の事宜を条陳し、兵を養い粟を積んで東勝と河套の旧領を回復することを請うた。
  • また次のように言った。今の辺将は晩唐の将帥と変わらない。敗れれば士卒がその災いを受け、勝てば権豪がその賞を受ける。しかも軍餉を掠め取り月々の銭を納めさせるので、三軍は怨憤が胸に満ちている。誰が国のために命を捧げようか、と。いずれも時弊を突く言葉であった。
  • 秩満ちて侍講に進み、經筵に侍した。二度の喪に遭い、服喪を終えたが、親の存命中に養うことができなかったことを悔いて、そのまま出仕しなかった。

南北の祭酒

  • 𢎞治初、論者がそろって推薦したので、もとの官で召されて憲宗實録を修めた。𢎞治三年(1490年)、南京國子祭酒に抜擢され、六事を上言した。師儒を択ぶこと、科貢を慎むこと、祀典を正すこと、載籍を広めること、㑹饌を復すること、撥厯を均しくすることである。
  • その祀典を正す件では、宋儒の楊時を進めて吳澄を罷めることを請うた。禮部尚書の傅瀚がこれを抑えたので、楊時を進めるだけにとどまり、吳澄の祀りは元のままとなった。
  • 翌年、病と称して去り、家に居ることおよそ十年、推薦する者はいよいよ増えた。たまたま國子の祭酒が欠けたので、部議が起用を提案し、帝はもとより鐸を重んじていたので禮部右侍郎に抜擢して祭酒の事を管させた。たびたび辞退したが許されなかった。
  • 当時、章懋が南京の祭酒であり、二人はともに人の師であったので、諸生は互いに祝い合った。五年いて病を理由に帰郷した。
  • 鐸は経術が深く、文章には体要があった。二度国子の師となり、課程を厳しくし、請託を絶ち、号舎を増やし、堂室を修め、廟門を広げ、公廨三十余を置いて属官を住まわせた。諸生の貧しい者には手当てし、死者には官に請うて制度を定めて殮葬した。
  • 郷里にあっては族党をよく助けたが、自身は布衣蔬食であった。正德五年(1510年)に卒し、禮部尚書を贈られ、諡は文肅。